2011年05月03日

福島第一原発 飯舘村から

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長泥の交差点の村役場の掲示板に毎日測定された放射線量が掲示されている。隣に「注意 熊出没」の看板があった。住民に「熊はでるンかい?」と聞いたら「出た事ねえ。熊は見えるけどみえねえ放射能のほうが熊より、おっかねえ」といっていた。


長い間ブログ更新出来ず皆様にご心配おかけしています。

3月15日以来、飯舘村を継続的に取材をつづけています。

飯舘村の事を考えて眠れませんでした。歳のせいかもしれませんが。

飯舘村は高濃度放射線に汚染されたままです。
役場周辺では2〜3μSv/時ですが、高いところでは10から十数μSv/時あります。この放射線量はチェルノブイリ原発から4キロにある無人の町・プリピャチ市より2〜4倍近くの放射線量を出しています。ここはとても人が住めるような所ではありません。しかし、飯舘村には幼児も含め数千人が住んでいるのです。

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学校に行っている間は低い線量の被曝で住むが、蕨平は10μSv/時 前後の放射線量があります。
川俣町に移転した小学校と幼稚園からスクールバスで戻ってきた子ども(4月28日飯舘村蕨平)


私は被曝と疲労が限界に達し、5月1日一時、帰宅しました。
心と肉体の全身が痛みます。

4月26日の東電本社抗議集会はすごかったですね。ご存じでしたか?
農民が初めて東電本社に抗議に行って、行けなかった福島の農民を励ましています。
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前日泊めて貰った、飯舘村の酪農家・志賀さんのところで、親父に「明日は東電
本社に抗議に行くんだ,一緒に行かないか」と誘ったら連れってくれ、というか
ら早朝、6時に飯舘村の蕨平を出発しました。
昼少し前に着いたので築地に行って寿司をごちそうしました。
久しぶりにうまい寿司を食わせてもらったと喜ばれました。
東電前で抗議行動に参加した志賀さん(4月26日 東京/東電本社前)
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事前に飯舘村から酪農家を連れて行くと主催者の農民連に連絡しておいたので、
本社交渉に志賀さんを代表の一人として入れてくれた。冒頭発言を要請された志
賀さんが「酪農の牛は移動させりゃそれですむ問題じゃなく、搾乳施設や屎尿処
理も考えなけりゃならない。人の避難はその後だ。避難先で仕事が見つかるのか?
ひと月以上収入がないので早く補償しなかったら、我々は食っていけない。なぜ
社長が謝罪に来ないのか?」志賀さんは思いが吹き出して止まらなくなりました。
災害補償対策の担当部長が、ただ頭を下げるだけ。その場ではなんの回答もありませんでした。


東電本社交渉が終わってとんぼ返り。夜は飯舘村で村民抗議集会が開かれました。
会場入りきれない人も出て、250人ぐらいが参加しました。
若者が中心に呼びかけた集会はよく準備され、とても感動的で今まで見たことが
ない感動的な集会でした。
「これは人災だ。被災者じゃなく被害者だ。飯舘村だけでなく全国の人が原発に
反対して我々のことを我が事として考えて欲しい」「孫達が帰ってくるところが
無くなった。子どもたちが戻って来るところがない」と参加者の代表が自分の今
の気持ちや怒りを述べました。

ふるさとを失い、家族が引き裂かれ、地域がばらばらにされ、田んぼは作れない、
日本蜂蜜も取れなくなった。蕨や山菜もシーズンを迎えた。でも山にも入れない。
原乳の出荷停止で収入が絶たれ、餌も買えず牛はやせ衰えて行く。牧草は青々と
生えてきたが、それも食わせられない。さくらが満開なのに田んぼには人影すら
ない。冬眠から覚めたかえるが田んぼでうるさく泣いていた。
ほうれん草はビニールハウスの中でとうがたち、小松菜はきれいな菜の花を咲
かせていた。花崗岩の大地からしみ出した清水は誰ののども潤すことが出来なく
なってしまった。何もかも、汚染して、人間の存在を拒否している。

阿武隈山中の飯舘村は3年に一度、ヤマセが襲う村。厳しい環境の中で大自然
の猛威と闘いながら自然の恵みを受け、先人達は営々と暮らしてきた。粘り強い
気質はここの気候風土に根ざした物なのかもしれない。

ブランドになった飯舘牛や特産のほうれん草、椎茸、など高原野菜を育て近年、
少しずつ暮らしも楽になってきた。後継者も育ち、希望が見えてきた矢先の原発
事故。
 40キロ先の原発の危険をずっと警告していた人がいた。共産党員の元農協組合
長は「真っ先に被害に遭うのは飯舘村だから絶対に反対しなけりゃいけないよ」
と言い続けていた。彼はすでに高齢で亡くなっていた。

住民は放射能の恐ろしさを実感できず、一時避難していた住民の多くが戻って
来ていた。
隣の川俣町に移転した保育園にスクールバスで通っている5才の子どもを見かけ
た。子どもたちも汚染した村に住んでいる。

政府は「ただちに健康に影響はない」「安全だと」言い続けておきながら「計
画的避難」を言い出して村は混乱している。

飯舘村の取材を始めて1ヶ月。
世界中の核汚染地の中で使っていた放射線測定器がここでは通用しない。
私が知っている世界の核汚染地とは桁違いの汚染度だ。
この事事を村の人に伝えられない。
 セミパラチンスクやチェルノブイリで見た被害がいつかこの村人に出てくるか
もしれないと言う事を伝える勇気がない。

 危険性を伝えるだけでは、どうにもならない。避難するにはお金がいる。補償
がはっきり約束されなければ動けない人たちに、「ここは危険だから避難した方
がいい」と言い切れない。

 昨日、当初から取材を続けている田中さんの牧場に行った。
半数近くの牛が那須の組合牧場に移動した後だった。残された牛は処分されるだ
ろう。でもそれまで、世話を続けなければならない。
「本当にここは危険なのか」と真剣な眼差しで問い詰められた。
飯舘の長泥部落は最も汚染が酷く、その中でも最も高い放射線量を出している
のが田中さんの牧場だ。「牛の事を考えると避難できない」「おれは酪農で勝負
をかけようとこの地にやってきた。ここに入植してちょうど10年目。原発事故で
この勝負を放棄するわけにはいかねえ」と言っていた。田中さんにここは危
険だからすぐ避難してとずっと言えなかった。
でも昨日ようやく自分の気持ちの整理が着いて「ここはチェルノブイリの事故を
起こした4号炉から200メートルの地点より汚染が酷いところなんだよ」と初めて
本当のことを伝えた。
心の動揺を紛らわすように「牛の処分が済んだら、俺はあの松の枝にぶら下が
っていんかもしんねよ」と冗談を言って作り笑いをしていた。辛くて、一緒に居
られず車に乗り込んで帰ってきてしまった。

 この間、飯舘村で取材したことを毎日ブログにUPしなけりゃと思いつつ、疲労
と頭の整理がつかず、どうして良いやら。
気づいてみると飯舘村が好きになっていた。人の優しさ、美しい風景、豊かな
自然の恵み。すべてが見えない放射能のせいで失われる、と思うと汚染されてい
る事実をどうしても受け入れらない自分がいた。
posted by M at 21:45| 原発