2011年08月21日

飯舘村から ゴッホの描いた同種類のひまわり?

汚染の酷い長泥で咲いていた。このメーターの測定限界の毎時19μシーベルトでした。(8月14日)

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2011年08月20日

飯舘村から 偽りの除染テスト ひまわりの畑

ひまわりが除染に効果があることはチェルノブイリでも知られている。
農水省が行った飯舘村でのテストは一カ所だけ。
汚染の比較的少ない二枚橋地区の畑だ。
種まきの時に農水省の技官に「もっと汚染の酷い地域でもテストをしなければ効果がはっきりしないでしょう」と質問したら「汚染の酷いところでは効果が出ない」と言っていた。
8月15日菅野村長にお会いした時、ひまわりの除染テストの話をしたら「あれはパフォーマンス」と国のやることを批判していた。
しかし、種まきの時に村長は農水大臣と一緒に種を蒔いていました。あの事はどういうことだったんでしょうね。
そんな人間様のいきさつとは関係なくひまわりは、太陽の恵みをもらって天に向かって元気よく咲いていた。
「希望を失っちゃいけないと」と村人を励ましているようだった。
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2011年08月19日

「賠償金より餌よこせ」毎時18マイクロシーベルトの牧草

伊達市霊山町の酪農家が刈り取った牧草は毎時18マイクロシーベルトの放射線を出していた。
ロールにラッピングされたこの草は本来ならばこのまま保存され、乳牛の餌になるのだが、
牧草地が汚染したため刈り取って保管しておくことになった。酪農家は牧草地の
草を餌として与えられず、北海道や外国からの輸入干し草を買って与えている。
いつまでも購入した飼料を与え続けるには資金が底く。
30キロ圏外の酪農家は「賠償金より餌よこせ」と悲鳴を上げている。
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飯舘村から お盆の墓参り


「毎年、おはぎをつくってお供えするのに、今年はコンビニのおはぎで我慢してもらうしかない」と墓参りの老婦人が言った。
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飯舘村から お盆お墓参り

避難先から久しぶりに戻って墓参りにきた家族(8月13日飯舘村二枚橋)
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福島市のホットスポット

高線量のホットスポットが無数にある。
8月16日福島市蓬莱町の側溝でホットスポットを見つけた。
放射線測定器は毎時41マイクロシーベルトあった。
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2011年08月18日

飯舘村から 新天地で酪農をする二人

長谷川健一さんの息子・義宗さんと田中一正さんは山形県飯豊町にある県酪連の牧場で働いている。
お邪魔した時母牛に種付けが終わった時だった。
この牧場の乳牛は300頭。夏の間は涼しい夜間に放牧している。
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2011年08月11日

東電本社に抗議の農民 追加

4月16日に川俣町で取材した酪農家の斎藤憲雄さんの姿を見つけた。
搾った原乳を捨てていた。その顔は悔しさと、情けと、怒りとが入り交じった表情でなんと声をかけていいのかわからなかった。
あれから4ヶ月過ぎた8月3日東電前で会った斎藤さんの顔には強さやたくましさがあった。
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2011年08月07日

低線量地帯−囲われた生活空間 福島市渡利地区

阿部裕一さん(37)と夕子さん(37))夫妻には葵裕奏(あゆか)ちゃん(1歳4ヶ月)がいる。裕一さんは学習塾の教師,妻の夕子さんは小学校の事務をしている。一家は福島市渡利地区の静かな住宅地に一戸建ての借家に住んでいる。市内でも汚染が酷い地域だ。
阿部夫妻は福島第1原発事故が起こるとTVニュースを見続けた。12日、TVの生放送で1号機の爆発の映像がながれた。裕一さんは「大変なことになるぞ」と思った。しかし、テレビではコメンテーターがガス抜きだと言っていた。誰が見ても爆発なのに。それでも事故による汚染の事を伝えるニュースは流れてこなかった。
3月15日午後4時頃、インターネットで福島の放射線量が高くなったことを知った。
我が子の事が一番心配だった。16日は家に閉じこもり、17日新潟に3人で逃げた。何はともあれ、子どもを守らなければという思いだった。4月3日に家にもどってきた。
4月21日初めて自分で線量を測ったら、屋外で毎時4,1マイクロシーベルトあった。
我が家では2階の方が線量が低いと思っていたが、実際は1階のダイニングルームが一番低かった。何度も何度も部屋を掃除したが放射線量は下がらなかった。もう、気が狂いそうになった。一番線量の低いところにゲージを付けて、この子の生活空間にした。時々は外にも出しますが、ほとんどをこの空間で過ごしている。抱っこしていると上の方の線量が高いので怖い。そんなに神経質にならなくてもと言うが、何かあったらどうしようと思う。「この子が大人になった時に、福島出身の女の子だから,なんて言われたりしたら。東電に爆弾でも仕掛けてやろうかと思っちゃう」
外で動き回れない分、体力が余っちゃうんですよ。夜の寝付きが震災以来良くない。夜中に起きて明け方まで眠らないで昼間寝てしまったり。生活サイクルがおかしくなって親も寝ないので、体調を崩して血圧が上がりっぱなしですよ。

福島市のHPに原発の事をインターネットに書き込むと「書いてくれるな」と言われた。でも、福島の話題を書き込むところでしょ?現実から目をそむけたいんじゃないでしょうか。渡利地区で取材や放射線を測定している人を見かけると「止めてくれ」と騒ぐ住民がいる。これ以上線量が高いのを見たくもないじゃないですか?
我々が引っ越さないのは物件がないからですよ。浜通の人が入るために自治体に借り上げされているので。福島は汚染されているので,他のところを探そうとするんですが、冬の通勤の事を考えると遠くて雪のたくさん降るところは怖いんですよね。
お金が欲しいのではなく、ただ、ただ、普通の生活をしたいだけなんですよ。
それができなのであれば、それに変わるものを何とかして欲しいと言っているだけ。

「区切りを付けたいのだけれど原発はいつ終わるのか。原発問題が無ければ、何も問題なく次に進めるのに・・・・」この子もすごいストレスですよ。大きなスーパーに連れて行ってそれ走らせて、発散させるんですよ。
国も県も市も何もしてくれない。
もう4ヶ月ですよ。事故以来、洗濯物は室内干しで、家の窓は事故以来ずっと開けていませんよ。現在、玄関先の放射線量は毎時2~3マイクロシーベルト前後ある。
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2011年08月05日

飯舘村から 移転した鴫原さん一家

長泥地区で母牛に子牛を産ませて育てる繁殖農家をやっていた鴫原照二(52歳)さんは6月に村の斡旋で紹介された田村市の酪農家の牛舎と住宅を借りられることになり引っ越した。
「長泥地区は今でも、毎時17マイクロシーベルトもある。もう戻れないかも知れない」「私には牛しかないので迷いは無かったですよ」と鴫原さんは言う。しかし、再出発を素直に喜べない問題がたくさんある。損害賠償がまだ一つも具体的になっていない。さらに、来年出荷予定の牛が汚染していたら・・・。さらに心配なのは一人娘のあやかちゃん(7歳)のことだ。今年小学校一年生で飯舘村の小学校に入学した。だが学校は川俣町に移転して授業を行っている。「そこには友達もいるので、時々川俣の学校に行きたいなと言うんですよ。新しい学校でようやく慣れて友達もできてきました」と少しほっとした様子だ。
「家族が一緒に暮らせることが何よりですよ。当たり前なんですがね。原発事故は当たり前の生活を許してくれないんですよ」と言った。

原発事故から1ヶ月半後、彩花ちゃんはお母さんと山形に避難し寂しい思いをした。
もう、ずっとお父さんの側を離れなたくないのだろう、牛小屋でお父さんの手伝いを楽しそうに続けていた。
(田村市7月29日)
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2011年08月04日

飯舘村から 蕨平の志賀さん

「ここは本家だ。ほれ、こんなに草が生えちまった。人が住まなくなっと、早えもんだ」村の見回り隊に参加した志賀正男さん(74歳)は寂しそうに言った。計画的避難が始まってすでに2ヶ月が経ち、人の住まなくなった民家の軒先にはオオアレチノギクが腰まで伸びていた。
7月末、人口183人50世帯の飯舘村蕨平地区にはまったく人がいなくなった。
計画的避難が決まったあと、防犯のために村は自分たちで守ろうと組織した「見回り隊」に参加した志賀さんは奥さんの美枝子さんと一緒に一時避難先の箕輪から3時間かけてやって来た。
前日、蕨平の自宅に泊まって、早朝4時半に「見回り隊」本部がある役場の向かいにある「陽だまりの家」に行った。1日3交代でこの日は昼までの当番だ。
 70歳を過ぎた身体にはきつい仕事だ。しかし、「避難先のホテルにぶらぶらしているのも辛い。少しでも現金が稼げるならと思ってみんなやってんだよ。自分のふるさとは自分たちで守ろうという気持ちもある」と志賀さんは背筋を伸ばして、避難した民家の入り口を封鎖しているチェーンをひょいと飛び越した。
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2011年08月03日

東電本社抗議

農民連の皆さんが東電本社に賠償金の支払いをせよと抗議した。(8月3日)
牛も汚染わらでモー限界だと。
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posted by M at 20:12| 原発

飯舘村から お墓の掃除

もうすぐ、お盆が来る。お墓が草だらけではご先祖様に申し訳ねえ。
7月末老夫婦で墓の草取りをしていた。(7月28日板手村二枚橋)
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posted by M at 19:40| 原発

2011年08月02日

飯舘村から 7月

台風6号が通り過ぎた7月末、飯舘村は連日大雨警報や注意報が出ていた。
最高気温が2十数度までしか上がらず、寒い夏だった。
夕闇の山が霧に包まれていった。

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posted by M at 22:07| 原発

2011年07月11日

子どもたちに配られた線量計

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川俣町では幼稚園、保育園小中学校の子どもたちに「親の不安を解消するため」
として簡易型の線量計が配布された。子どもたちは線量計を首から下げている。
近畿大学が3ヶ月ごとに回収し、積算線量を町に報告することになっている。

低線量被爆の影響の研究はこれまで、研究したくとも、出来なかった研究だった。
福島は研究者にとって絶好の研究対象になってしまった。
それにしても、子どもたちがその研究対象になっている事に割り切れなさを感じる。
posted by M at 16:19| 原発

2011年07月08日

飯舘村から 乳牛最後の競り(本宮市)

6月29日飯舘村の乳牛が売られていった。これで飯舘村の乳牛は一頭もいなくなった。
志賀正次さんと奥さんの百合子さんが育ててきた子牛はその日の競りで最高高値をつけた。
百合子さんは我が子を育てるように、普通の酪農家は育ちが早い脱脂粉乳を生まれた子牛に飲ませるのだが百合子さんはあえて母牛のミルクを飲ませている。育ちは遅いが健康に育つからだという。生まれたばかりの子牛には湯たんぽを入れて床に毛布を敷いて暖めてあげると風邪も引かずに元気に育つ。百合子さんの育てた牛は市場で少しずつ評判になってきた。今年はもっとたくさん子牛を育て「百合子ブランドで売りだそうと思っていたんだ。でも全部終わった」と言って志賀夫妻は競り値のボードを見つめていた。
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posted by M at 12:14| 原発

2011年07月05日

飯舘村から 収穫できない小麦

六月末、梅雨の晴れ間に秋に蒔いた小麦が実っていた。
何事もなかったように黄金色の穂は天を仰いですっくと立っていた。
村の人々は避難し、汚染した小麦は放棄された。
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2011年07月04日

飯舘村から 一時帰宅

計画的避難区域に指定されてすでに3ヶ月近くが経つ。村は90%以上の住民が避難した。
 だが、住民は避難所から通って畑作業をしていた。
畑に大きく太ったタマネギの収穫時期を迎えていた。
「もったいないからね.放射能調べて貰って、大丈夫なら食べようと思っている」と。
気持ちはよくわかるんだけれどね。悔しいねー。(6月29日飯舘村)
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posted by M at 12:11| 原発

2011年07月03日

飯舘村から シーザーのその後

6月1日蕨平の酪農家・志賀さんのところで牛と一緒に暮らしていた子ねこのシーザーは縁あって北海道で避難生活を送っている。北海道の前田さんから近況の写真が送られてきた。


                                    撮影・前田さん
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最近はバルが付き合ってくれるようになって
二匹でじゃれ合っています。(前田さんのコメント)

                                    撮影・前田さん
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初めて抱いて外に出ましたが、超警戒して
おそろしい顔に。。。。私にしがみついて
おりませんでした。(前田さんのコメント)


posted by M at 12:08| 原発

なくせ原発7.2集会

東京 明治公園
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2011年06月26日

特定避難勧奨地点の伊達市霊山町上小国

「作る前にどのくらい汚染しているか測ってくれと市に言ったんだ。でも測ってくれなかった。
市に聞いても,農協に聞いても大丈夫と言われた。コメ作っていい、と言われた。
だから作ることにした。でも、収穫した後汚染していると言われたらどうしよう。
田んぼの水は山からの水だ。3月14,5日の降った雪は全部山に積もった。
この谷筋は原発からの風の通り道なんだ」
伊達市霊山町上小国の放射線量は4μsv/hある。
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posted by M at 23:39| 原発

飯舘村から モリアオガエルの卵

蕨平の谷筋の民家のしたに小さな池があった。
沢からのきれいな水が絶え間なくjながれ込んでいる。
こぶしほどの大きさの白い泡の塊がエゴの木の小枝にしがみついてその重みで枝が垂れ下がっている。
モリアオガエルの卵の泡状の塊がくっついていた。池の中ではオタマジャクシがたくさん泳いでいた。
蕨平地区は飯舘村の中でも放射線が高い地域だ。池の周りの放射線は8μSV/h前後だった。
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posted by M at 09:37| 原発

飯舘村から ツバメの子育て

例年なら田んぼに早苗が波打っているはずなのに、今年は風景が一変してしまった。
ツバメの巣作りのための泥はどこから運んできたのだろう。
水が張られた田んぼの上を飛び交うツバメの姿はなく、どこから餌の虫を捕ってくるのだろう。
せっせと、ヒナに餌を運んできた。
原発事故など無かったかのように,ツバメは今年も子育てをしていた。(飯舘村6月22日)
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posted by M at 09:37| 原発

2011年06月25日

飯舘村から 見回り隊

計画的避難区域になった飯舘村では盗難や犯罪から守るために村民が「見守り隊」を作って1日3交代でパトロールを行っている。
「緊急雇用創出事業によるいいたて全村見守り隊員募集要綱」によると、募集人員290人雇用期間は来年の3月31日まで事業費うち人件費6億6千万の予算がついている。
「村を守るという愛郷心から見回り隊に参加した人もたくさんいると思うが、そればかりじゃない。住民の中には、本当はこんな仕事はしたくねえー。避難しちまって、ほかに働くところもねえし、お金がないから仕方ね、と言う人がたくさいた。290人の雇用が創出されたといっても、引き替えに村民が被曝を積み重ねることになる」と佐藤八郎村議は言う。
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posted by M at 10:22| 原発

飯舘村から 幼稚園のブランコ

計画的避難区域の飯舘村で子どもたちの歓声が消えた。村立草野幼稚園の汚染したブランコは
子どもが乗れないようにひもで縛られていた。夏草が生え始めた園庭のブランコはチェルノブイリ原発から4キロ離れたプリピャチ市の遊園地の観覧車
を思い起こさせた。プリピャチ市はチェルノブイリ原発4号機の爆発から3日後に避難していった。子供たちの歓声がその時から消えてしまった。
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posted by M at 10:22| 原発

汚染除去のひまわり

福島市内でも汚染の比較的酷い蓬莱地区の住民がひまわりの種を蒔いた。
自宅の庭の汚染を少しでも除去しようと自衛策だ。
汚染の広がりの実態が明らかなり市民の心配はますます深くなっていく。
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2011年06月22日

飯舘村から。 管野村長6月21日報道ステーションインタビュー 

6月21日今夜飯舘村役場から古舘一郎がインタビューしていた。
「避難が遅れたが、村内企業も継続して500人の雇用を守った」と村長発言。
そんなこと自慢する事じゃない、それと引き替えに「妊婦や子どもを村にとどめて被曝させた」と村民は怒っている。
子どものことも自己の責任についても一切触れなかった。

3月14日TVで3号機が爆発した。ある村民が村役場の災害対策本部に行って、いくらあるんだと問い詰めたら、40μSV/hを超したと言われた。
住民が帰る時、村職員はこれは公表しないでください、村長から口止めされていると言った。

村の高校生の会話。
「将来 結婚出来ない,子供を産めない。どんな子どもが生まれてくるからわからない」
こんな話が村の中でささやかれている事実を古舘一郎は全く知らないのか???
posted by M at 09:42| 原発

2011年06月21日

「原発さえなければ」酪農家の遺言

                                     撮影 長谷川健一
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6月10日、相馬市の酪農家が牛にいなくなった牛舎で自らの命を絶った。
牛舎の壁に書かれた抗議の「遺書」には家族や子たちへの謝罪と酪農家への謝罪の言葉が殴り書きのように綴られていた。
すべてを奪われ孤立し希望を失ってしまった。きっと心の優しい人だったに違ない。その優しさ故に自ら命を絶ち、死後もそのことをわびるのだ。残酷だ。
なぜ、彼が謝罪しなければならないのか?自殺に追い込んだ者達こそ、被害者に謝罪しなければならないはずなのに。

この悲劇を繰り返さないために、責任追求と原発の廃止、すべての被害の賠償を。
事故の早期終結を。
しかし、現在も事故は進行中。被害はますます拡大している。
同じような犠牲者を出さないためにも「一人じゃないよ。皆つながっているよ」とメッセージを発信し続けることだ。

人は不正や不条理に向かって闘わなければ救われない。
6月25日(土)と26日(日)には福島市内で反原発集会の集会が開かれる。
7月2日(土)は東京でも2万人の集会が予定されている。
今こそ、原発推進から自然エネルギーへの転換を。そのことが命を賭けて抗議した酪農家の無念に応える事になると思う。
posted by M at 10:23| 原発

2011年06月18日

飯舘村から シーザ-の里親 前田さん

シーザーは私が帰る日、車に乗せて東京に連れてきました。
大きな箱の上を金網でフタして逃げないようにして助手席に乗せてきました。途中、鳴くので金網の穴から指を差し込んで、頭に触れているだけで安心したように泣き止みました。とても不安だったのでしょう。
里親になってくださった、北海道の前田さんに都内で手渡しました。少し警戒していましたが、前田さんの腕の中で静かにあたりを見まわしていました。
志賀さんに北海道の方で里親が見つかったというと「大切に育ててくれる方ならどなたでもいい」と仰って預かってきました。「私ら飛行機載ったことねえのに、シーザーの方が先に飛行機を経験するんか」と冗談いっていました。
北海道での暮らしぶりは後日報告します。
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早速、抱きかかえる前田さんとシーザー(6月1日都内で)
posted by M at 01:12| 原発

2011年06月17日

飯舘村から 子ねこのシーザー

hosei1_TM13345.jpgとうとう、牛舎は空っぽになってしまった。
東京に戻る日、志賀さんの牛舎で奥さんの百合子さんと一緒に写真を撮らせていただいた。
シーザーは朝から牛の居なくなった牛舎で、寂しそうに鳴いていた。牛が居なくなったことなど知る由もないが、ひとり取り残された寂しさから、私の足下にまとわりついていた。なにしろ自分は牛の仲間だと思い込んでいたのだから。
志賀さん夫妻は避難先のアパートでペットが飼えないため、シーザーも手放さなければならなかった。
原発はふるさとも牛も全てを奪ってしまった。牛同然にかわいがっていたシーザーも手放さなければならない。こんな理不尽さが許されてたまるものか。
(6月1日志賀さんの牛舎で)
posted by M at 12:04| 原発

2011年06月16日

飯舘村から 酪農家のお別れ会。

5月28日、酪農家の長谷川さんの家で飯舘村の全酪農家12軒の夫妻が集まって、お別れ会が開かれた。
もう一度こうして集まることがあるのか?夜遅くまで酒を夜遅くまで飲み明かした。
そして、ひとりじゃないことを確認し合った。
この夜、沖縄地方に台風が接近していた。
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posted by M at 22:25| 原発

2011年06月12日

飯舘村から 酪農家の長谷川さんをあなたの町に呼んでください。


みなさん、
ブログにUPしている、飯舘村の長谷川健一さんが自らの体験を直接みなさんにお話したいとおっしゃっています。呼んでくれるなら何処にでも行くと。
長谷川さんの撮った映像(動画)もあります。

米軍占領下の沖縄・伊江島で銃剣とブルドーザーによる強制的な土地取り上げに反対し
闘うために、カメラを買って米軍の蛮行を記録し続けた阿波根昌鴻さんがいました。
いま、彼と同じように自分の村の体験を後世に残そうと4月にビデオカメラを買って撮影しています。
その映像と一緒に話をします。汚染して村を出て行く人々の無念さや悔しさ、原発への憎しみと汚染の今後の心配など、ともに考える良い機会です。

是非、皆さんに呼びかけて長谷川さんと飯舘村のお話を聞く機会を作っていただけないでしょうか。
連絡は
iikouen@gmail.com
にお願いします。


写真・原乳の出荷停止で捨てるために搾乳する長谷川健一さん。
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posted by M at 11:25| 原発

2011年06月11日

飯舘村から シーザー物語3

シーザーの写真まとめて公開。
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posted by M at 23:04| 原発

2011年06月06日

飯舘村から 子ネコのシーザー物語2

シーザーは牛舎の片隅で昨年9月、野良猫のブンジロウ(男の名なのになぜかメスネコ)が産んだ3匹のうちの一匹。
2匹はどこかに運び去ってしまったが、シーザーだけは置いてきぼりにされた。
ブンジロウの育児放棄だ。
心優しい志賀さんの奥さんの百合子さんに子ねこ用のミルクを与えられ、大きくなってきた。
シーザーのいるところはいつも牛小屋。自分も牛だと勘違いしているようだ。
牛の前を横切るときには牛が気を遣って前足を移動して,シーザーが通る道を空けてくれる。
彼女は牛が母親だと思っているようだ。シーザーの長い毛がいつも濡れているのは牛に嘗められているからだ。
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飯舘村から 子ねこのシーザー物語1

志賀さんの牛舎にいた子ネコのシーザー。
奥さんの百合子さんがシーザーとつけた。
沖縄の陶器の置物のシーサーから濁ってシーザーとなったとか。
生後9ヶ月になった。
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2011年05月30日

飯舘村から 青木さんの引っ越し


青木さん家族http://mphoto.sblo.jp/index-2.htmlの引っ越しが午前中行われた。
台風が熱帯低気圧に変わっても、飯舘村は時おり激しい横殴りの雨が降っていた。

運送屋さんが丁寧に包んで運んでくれた。
運送屋さんの胸のポケットには積算線量計が入っていた。

お母さんの側で1才7ヶ月のひなたちゃんがお手伝いをしようとしていた。
家族は明後日、福島を後にする。

「雨、雨 降れ降れ もっと降れ」なぜか八代亜紀の歌が頭の中で口ずさんでしまった。
飯舘の放射能を流していってくれ。
悔し涙の雨のようだった。
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2011年05月29日

飯舘村から 農地の汚染除去????

5月末、住民の避難の動きが活発になってきた。

飯舘村二枚橋で放射能で汚染された土壌の放射能除去の為にひまわりの種を蒔いた。
放射性物質をひまわりが吸い上げて土壌の汚染を少なくする。

今日はなんのお祭りなんですか????
農水大臣も来た。それを追っかける報道陣も一杯来て,まるでお祭り騒ぎだ。
村民は避難先に荷物をまとめて引っ越しのさなかだ。
「まだ謝罪も賠償もまともな話もないのに、土壌改善で汚染の話は終わりですか?
もう、幕引きですか?」
「どうせやるならもっと汚染の酷い,長泥や蕨平でやれよ」
「汚染の酷いところは効果が少ないと言うが、効果が上がる事がはっきりしているところでやっても意味がない」「汚染の酷いところをどうするか実験して欲しい。」「田や畑の放射能がなくなっても山はどうなるんだ。山からの恵みを受けることも村の暮らしの一部なんだ」「これじゃまるでセレモニーだ」と村民は覚めた目で見ていた。

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2011年05月27日

放射能汚染 校庭の土

福島市内の小学校でグラウンドの放射能汚染を軽減するため、表土をはがして一
カ所にまとめていた。(5月27日)
子どもたちの年間被曝線量を20ミリシーベルトと決め親の批判を浴びてやっと、
1ミリシーベルトに引き下げた。何の根拠もなく決めて,そして引き下げた。文科
省は右往左往して、親に余計な心配をさせて子どもたちの被曝量を増やしていい
る。
福島市内は高い放射線量を示していることがわかっているのだからせめて、子供
たちだけでも避難させるべきなのに。事故後77日日がたってしまった。
今日、表土をはがす前、福島市立渡利小学校グラウンドの地表1センチで4〜5μ
シーベルト/時あった。
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2011年05月26日

電源喪失

相馬市の送電線の鉄塔の倒壊現場。
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飯舘村から 一時避難3

志賀さん一家。30年間の酪農が終わった。
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飯舘村から 一時避難2

荷物をまとめて避難先に行く車に荷物を積み込んだ。
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飯舘村から 一時避難

蕨平の志賀さんの両親が一時避難をした。朝、仏壇に線香と花を手向け手を合わ
せ「先祖さまを連れて行くわけにはいかない。ごめんね」と言った。
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2011年05月25日

飯舘村から 長谷川さんの牛が連れて行かれた。


きょう午前中、飯舘村の酪農家をまとめていた長谷川さんの牛が連れて行かれた。
成牛12頭。
「一頭一頭全部思い出があるからな」といって、原発事故が起こってから「村の事を記録しておかなければ」と買ったビデオカメラで我が子同然に育ててきた牛
の積み出しを撮影していた。目尻に光る物が一筋すーっとほほを伝っていった。
朝の光がそのしずくの通った道を光らせていた。
悔しさと無念さがにじみ出ていた。


俺は何でこんな写真ばかり撮るんだ・・・・・・??。
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posted by M at 15:12| 原発

飯舘村から 田中さんの牧場から牛が消える

田中さんの牧場から牛が運ばれていった。(5月11日)
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posted by M at 14:42| 原発

飯舘村から

田中さんの牛がこの日、運ばれていった。
行き先は?と聞くと「ハムになる」と冗談を田中さんが言いながら目は潤んでい
た。
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posted by M at 14:30| 原発

2011年05月20日

飯舘村から 青木さんの家族1

飯舘村役場で、赤ちゃんを負った夫妻と出会った。
教育委員会にこどもの学校や保育園のことで相談に来た帰りだった。
お宅に連れて行っていただき詳しい話を聞かせていただいた。

ご主人の達也さんは近くの鋳物工場に勤めていたが、原発事故後、有給休暇を取っている。奥さんの千春さんは農協職員で共働きの夫婦だ。
お子さんは長男の燎平君(中二)、福島の私学に通っている。長女ひかりさんは小学六年生。1歳7ヶ月のひなたちゃんの3人のこどもがいる。

地震が起こって電気も止まり、水が出なくなった。
3月17日夜、地区の集まりがあり、自主避難だ「最小限の荷物を持って出なさい」と言われた。
青木さん一家は伊達市の親戚の家に1週間避難していた。
しかし、飯舘村は汚染が酷いにもかかわらず国の避難区域に指定されず、安全だと言っていた。
放射線量毎時9マイクロシーベルトまで下がってきていたので避難先から戻って来た。
他の村民も避難先から戻って、勤めに出たり、牛の世話をしていた。
インターネットにようやく繋がるようになってたくさんの情報が飛び込んできた。
でも、何を信じて良いのか?テレビでは安全だとか、低線量の放射線は身体にいいと言う人ひとがいるが、とんでもないことがわかった。
一刻も早く避難しなければと思っているが、仕事の事や避難先などが決まらず、今に至ってしまった。

今一番心配な事は子どもたちの健康だ。
県のアドバイザーの学者先生たちは大丈夫と言った翌日に「計画的避難区域」に指定された。
国と東電は「ちゃんと情報を知らせないで、俺たちは被曝させられたんだから、ちゃんと責任とってほしい」と静かに言った。

青木さんの家族は村の斡旋で、広島県に引っ越すことになった。
生まれ育った、ふるさとを出て行く事は辛いけれど、新天地にかけてみようと思っている。
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posted by M at 13:38| 原発

2011年05月19日

飯舘村から 長泥地区の歴代区長の写真

避難先や補償問題で長泥地区の話し合いがもたれた。区民センターの壁には歴代
区長の写真が掲げられていた。
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posted by M at 09:41| 原発

飯舘村から 山菜のゼンマイ

酪農家の長谷川さんの家に泊めていただいた。翌朝、長谷川さんが家の裏山を案内してくれた。
「昨年、行者ニンニクをたくさん植えたんだ。村おこしになると思ってね。
これ味噌付けて食うとウンマインだ。汚染されちまったからだめだ」
ゼンマイも今がシーズンだ。

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posted by M at 09:37| 原発

2011年05月18日

飯舘村から やせ細った牛

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長谷川さんの牛舎を訪ねると半分がらんとしていた。成牛の処分が終わって、妊娠中の牛などが残った。
一月半、原乳の出荷停止で収入を絶たれている酪農家はつに廃業を決めた。
当然、えさを購入することも出来ず、在庫の餌を抑えながら与えてきた。
栄養がとれない牛は、それでも自らの身を削って乳を出し続けてきた。
そして、でどんどんやせ細っていった。
戦争中殺された上野動物園の象の話を思い出した。
いま、福島は核汚染の戦場なのだ。
posted by M at 09:48| 原発

2011年05月17日

飯舘村 遅い春2

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放射能汚染で出荷停止になった小松菜がハウスの中で菜の花になっていた。まるで人間の愚行をあざ笑うかのようだった。(飯舘村小宮)
posted by M at 02:06| 原発

飯舘村から 遅い春1

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飯舘村に遅い春がやってきた。
一年で最も村が輝く季節だが・・・・・・・。
posted by M at 01:38| 原発

2011年05月09日

飯舘村から 牛との別れ

昨日から乳牛の移動が始まった。
志賀さんは妊娠した牛を残して、移動した。行き先は屠場。
今日、ガランとした牛舎の外で牛糞の処理をしていた。そばで「飛ぶ鳥は跡を濁さずだ。
でも、寂しいよ・・・・・」とすっかり弱気になったお母さんが涙流しながら言った。

中島信子さんはご主人の明大さんと40年以上牛飼いをしていた。
トラックに積み込まれた牛を見つめながら、カメラの前で思いの丈を話してくれ
た。
「分娩して一ヶ月以上、乳を捨てられ、この牛も悔しかったろうと思うよ。
だれがこんなことしたの?私ら以上に悔しかったろうね。いい牛でしょう。餌を
押さえていたから乳を出してどんどん痩せちゃったのよ。牛には申し訳ない。
「今朝は最後の乳搾りだったよ」って言ったやった。でも、牛はなんにも言って
くれなかった。
半分、手も足ももがれる気持ちだ。これはおまえ達の運命なんだよとは言いたくな
い。命は動物だって皆同じなんだ。まだ働けるのにごめんね。

親の代から牛を飼ってきた。まだまだやりたかった。一日もやめたいと思ったこ
とはない。残った妊娠牛は一生懸命育ててあげたい。

何処にぶつければいいの?この気持ち。
原発は人災だから絶対に許さない。

「ご苦労様 今までありがとう・・・・。」
トラックが発車すると牛にいつまでも手を振ていた。

--
森住 卓
Takashi Morizumi
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posted by M at 19:39| 原発

飯舘村から 牛がいなくなった。

飯舘村蕨平の志賀さんの牛舎の中はガランとしてしてしまった。
牛を繋いでいたロープは牛のぬくもりが残っていた。
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posted by M at 19:33| 原発

2011年05月05日

飯舘村から 3月15日取材初日

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3.11以来、私は写真の整理をする時間がなく取材に走り回っていた。
少し時間がとれたのでこれまでの動きを整理していて気づいたことがある。

ちょっと古い話になりますが、3月15日の話です。
福島第一原発は3月15日午前6時すぎに2号機の圧力抑制室が破損。爆発を起
こしていた。保安院は北西の方向に汚染が広がる事をシュミレーションしていた
が、「パニックになることを恐れて発表しなかった」(細野豪志首相補佐官の5
月2日の会見)

この日JVJAのメンバーとDAYSJAPAN 編集長の広河隆一氏は、南相馬からの帰り道
ちょうど午後4時頃、伊達市月舘布川で高濃度の放射線を検出した。
(3月16に日のブログを参照してください。http://mphoto.sblo.jp/index-4.html
伊達市月舘からわれわれは山道に入り飯舘村方面に車を走らせた。
ちょうど消防小屋の敷地に車を停車させ、測定した写真が見つかった。
伊達市月舘布川から20分ほど走ったところだった。
ここで放射線測定器は振り切れてしまった。
広河さんが持っていた放射線測定器は100μSv/hを越えてしまった。これ
以上測定不能だ。

役場近く(原発から北西39キロ地点)に置かれた放射線測定器は3月15日16時 
22.7μSv/h,同日17時40分 33.2μSv/hで最高が同日18時20分 44.70を記録。そ
の後、減少している。
 原発から北西に44キロ地点の前田地区は100μSV/時以上になっていたこ
とになる。公民館の前の民家には女性がおり、すぐに避難してくださいとお願い
するしかなかった。その後、我々は川俣町の災害対策本部を訪ね汚染が酷い旨伝え、避難をお願いした。

以来、理由ははっきりしないが、飯舘村に引き寄せられるように取材を開始した。
そして、今日 あのとき(3月15日)我々が飯舘村の計測をした場所が前田地区の
公民館前であったことに気づいたのです。
なんとあそこが100μSV/時以上あったなんて信じられません。

前田地区は酪農家の長谷川さんが住んでいる地区だ。その後、たびたび通っていると
ころだ。
そういえば、前に長谷川さんの家の雨樋の下ではかったら80μSv/hあった。長谷川さんと奥さんは覚悟していたように「やっぱりな」と一言いって、黙ってしまった事を思い出す。
酪農の後継者になろうとしていた長男は奥さんとこどもを連れて避難していた。
長谷川さんは「牛の処分が終わってからだ、人間が避難するのは」と来る人ごと
に話していた。
posted by M at 22:27| 原発

2011年05月04日

汚染された村 飯舘村/ 11軒の酪農家.苦渋の決断 廃業

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4月30日午前中、酪農家の長谷川さん宅に村内の酪農家が集まる事になっていた。私は志賀さん夫妻と一緒に行った。長谷川さんは福島県酪農業協同組合の理事でもある。NHKテレビが取材に来ていた。長谷川さんが「きょうは皆さんと意志疎通をはかり意見を一致させておきたい」と冒頭発言し、自分の決定を述べた。しわ枯れた声を押し殺すように話し始めた長谷川さんは「全頭処分して廃業するしかない」と言った。11軒の酪農家は夫婦同伴で全部で22人。皆、予想していた結論だったが、息を殺して長谷川さんの言葉を聞いていた。重苦しい空気でみな沈み込んでしまった。私は耐えきれなくなって、外に出た。長谷川さんが畑に捨てたミルクにありつけたカラスが仲間を呼んでいた。長谷川さんを取材したNHKテレビは5月1日夜放映したが、加害者の東電が全面的に被害補償すべきなのに一言も触れなかった。
posted by M at 16:20| 原発

2011年05月03日

汚染された村 飯舘村/閉じ込められた春

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日没後、こぶしの花の白さが浮き立っていた。
春とは言え底冷えの夜だった。(4月29日蕨平)
posted by M at 22:52| 原発

福島第一原発 飯舘村から

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長泥の交差点の村役場の掲示板に毎日測定された放射線量が掲示されている。隣に「注意 熊出没」の看板があった。住民に「熊はでるンかい?」と聞いたら「出た事ねえ。熊は見えるけどみえねえ放射能のほうが熊より、おっかねえ」といっていた。


長い間ブログ更新出来ず皆様にご心配おかけしています。

3月15日以来、飯舘村を継続的に取材をつづけています。

飯舘村の事を考えて眠れませんでした。歳のせいかもしれませんが。

飯舘村は高濃度放射線に汚染されたままです。
役場周辺では2〜3μSv/時ですが、高いところでは10から十数μSv/時あります。この放射線量はチェルノブイリ原発から4キロにある無人の町・プリピャチ市より2〜4倍近くの放射線量を出しています。ここはとても人が住めるような所ではありません。しかし、飯舘村には幼児も含め数千人が住んでいるのです。

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学校に行っている間は低い線量の被曝で住むが、蕨平は10μSv/時 前後の放射線量があります。
川俣町に移転した小学校と幼稚園からスクールバスで戻ってきた子ども(4月28日飯舘村蕨平)


私は被曝と疲労が限界に達し、5月1日一時、帰宅しました。
心と肉体の全身が痛みます。

4月26日の東電本社抗議集会はすごかったですね。ご存じでしたか?
農民が初めて東電本社に抗議に行って、行けなかった福島の農民を励ましています。
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前日泊めて貰った、飯舘村の酪農家・志賀さんのところで、親父に「明日は東電
本社に抗議に行くんだ,一緒に行かないか」と誘ったら連れってくれ、というか
ら早朝、6時に飯舘村の蕨平を出発しました。
昼少し前に着いたので築地に行って寿司をごちそうしました。
久しぶりにうまい寿司を食わせてもらったと喜ばれました。
東電前で抗議行動に参加した志賀さん(4月26日 東京/東電本社前)
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事前に飯舘村から酪農家を連れて行くと主催者の農民連に連絡しておいたので、
本社交渉に志賀さんを代表の一人として入れてくれた。冒頭発言を要請された志
賀さんが「酪農の牛は移動させりゃそれですむ問題じゃなく、搾乳施設や屎尿処
理も考えなけりゃならない。人の避難はその後だ。避難先で仕事が見つかるのか?
ひと月以上収入がないので早く補償しなかったら、我々は食っていけない。なぜ
社長が謝罪に来ないのか?」志賀さんは思いが吹き出して止まらなくなりました。
災害補償対策の担当部長が、ただ頭を下げるだけ。その場ではなんの回答もありませんでした。


東電本社交渉が終わってとんぼ返り。夜は飯舘村で村民抗議集会が開かれました。
会場入りきれない人も出て、250人ぐらいが参加しました。
若者が中心に呼びかけた集会はよく準備され、とても感動的で今まで見たことが
ない感動的な集会でした。
「これは人災だ。被災者じゃなく被害者だ。飯舘村だけでなく全国の人が原発に
反対して我々のことを我が事として考えて欲しい」「孫達が帰ってくるところが
無くなった。子どもたちが戻って来るところがない」と参加者の代表が自分の今
の気持ちや怒りを述べました。

ふるさとを失い、家族が引き裂かれ、地域がばらばらにされ、田んぼは作れない、
日本蜂蜜も取れなくなった。蕨や山菜もシーズンを迎えた。でも山にも入れない。
原乳の出荷停止で収入が絶たれ、餌も買えず牛はやせ衰えて行く。牧草は青々と
生えてきたが、それも食わせられない。さくらが満開なのに田んぼには人影すら
ない。冬眠から覚めたかえるが田んぼでうるさく泣いていた。
ほうれん草はビニールハウスの中でとうがたち、小松菜はきれいな菜の花を咲
かせていた。花崗岩の大地からしみ出した清水は誰ののども潤すことが出来なく
なってしまった。何もかも、汚染して、人間の存在を拒否している。

阿武隈山中の飯舘村は3年に一度、ヤマセが襲う村。厳しい環境の中で大自然
の猛威と闘いながら自然の恵みを受け、先人達は営々と暮らしてきた。粘り強い
気質はここの気候風土に根ざした物なのかもしれない。

ブランドになった飯舘牛や特産のほうれん草、椎茸、など高原野菜を育て近年、
少しずつ暮らしも楽になってきた。後継者も育ち、希望が見えてきた矢先の原発
事故。
 40キロ先の原発の危険をずっと警告していた人がいた。共産党員の元農協組合
長は「真っ先に被害に遭うのは飯舘村だから絶対に反対しなけりゃいけないよ」
と言い続けていた。彼はすでに高齢で亡くなっていた。

住民は放射能の恐ろしさを実感できず、一時避難していた住民の多くが戻って
来ていた。
隣の川俣町に移転した保育園にスクールバスで通っている5才の子どもを見かけ
た。子どもたちも汚染した村に住んでいる。

政府は「ただちに健康に影響はない」「安全だと」言い続けておきながら「計
画的避難」を言い出して村は混乱している。

飯舘村の取材を始めて1ヶ月。
世界中の核汚染地の中で使っていた放射線測定器がここでは通用しない。
私が知っている世界の核汚染地とは桁違いの汚染度だ。
この事事を村の人に伝えられない。
 セミパラチンスクやチェルノブイリで見た被害がいつかこの村人に出てくるか
もしれないと言う事を伝える勇気がない。

 危険性を伝えるだけでは、どうにもならない。避難するにはお金がいる。補償
がはっきり約束されなければ動けない人たちに、「ここは危険だから避難した方
がいい」と言い切れない。

 昨日、当初から取材を続けている田中さんの牧場に行った。
半数近くの牛が那須の組合牧場に移動した後だった。残された牛は処分されるだ
ろう。でもそれまで、世話を続けなければならない。
「本当にここは危険なのか」と真剣な眼差しで問い詰められた。
飯舘の長泥部落は最も汚染が酷く、その中でも最も高い放射線量を出している
のが田中さんの牧場だ。「牛の事を考えると避難できない」「おれは酪農で勝負
をかけようとこの地にやってきた。ここに入植してちょうど10年目。原発事故で
この勝負を放棄するわけにはいかねえ」と言っていた。田中さんにここは危
険だからすぐ避難してとずっと言えなかった。
でも昨日ようやく自分の気持ちの整理が着いて「ここはチェルノブイリの事故を
起こした4号炉から200メートルの地点より汚染が酷いところなんだよ」と初めて
本当のことを伝えた。
心の動揺を紛らわすように「牛の処分が済んだら、俺はあの松の枝にぶら下が
っていんかもしんねよ」と冗談を言って作り笑いをしていた。辛くて、一緒に居
られず車に乗り込んで帰ってきてしまった。

 この間、飯舘村で取材したことを毎日ブログにUPしなけりゃと思いつつ、疲労
と頭の整理がつかず、どうして良いやら。
気づいてみると飯舘村が好きになっていた。人の優しさ、美しい風景、豊かな
自然の恵み。すべてが見えない放射能のせいで失われる、と思うと汚染されてい
る事実をどうしても受け入れらない自分がいた。
posted by M at 21:45| 原発

2011年04月23日

汚染された村 5

放射能汚染の検査で基準値内でも集荷を拒否されて40日以上捨て続けた原乳。
畑の土はミルクの脂肪分が皮膜を作り浸みこまなくなった。
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posted by M at 17:35| 原発

2011年04月22日

汚染された村4

4月17日日曜日朝、飯舘村長泥の住民は同民コミュニティーセンターに集まっていた。
今後の行く末を区として決めようと。しかし、結局結論は出なかった。
議論途中で山火事が発生。
センターの窓から煙が見えて、消防団が緊急招集され出動してしまい、会議は流会になってしまった。
女性たちは納得いかず、いつまでも会場で話し合っていた。

この日の午後、枝野官房長官が飯舘村役場に視察にやってきた。
枝野長官は村長に「健康被害を出さずに,ここまでこれた」と開口一番言った。
彼には晩発性の疾患が多発することなど頭にはないのだろうか?
すでに住民は20ミリシーベルト近く被曝した人がたくさんいるに違いない。
調査も十分せず、何よりもその可能性が出てきた時にいち早く避難指示を出さなかった罪は重い。
措置を早期に執らず任期中は何も起こらないで欲しいと思っているのかもしれない。
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posted by M at 21:43| 原発

2011年04月18日

汚染された村 飯舘3

高橋さんのビニールハウスで育ったほうれん草は地震発生3日後が出荷の最盛期を迎えようとしていた。
地震で電気も止まり、ガソリンもなく運搬手段もなく、そのうちほうれん草の放射能汚染で出荷停止に。
ハウスの中だから外気と遮断された環境で汚染していなくても飯舘のほうれん草は誰も買ってくれない。
せっかく丹精込めて作ったほうれん草をこのまま捨てるわけにはいかないと、もったいないのでたくさん頂いておしたしにして食べた。
甘みがあってとてもうまかった。
計画避難が決まった数日後、30度を超すハウスの中で干からびたほうれん草の無残な姿が目に飛び込んできた。
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posted by M at 22:15| 原発

汚染された村 飯舘2

計画避難が決まった4日後、飯舘村蕨平の酪農家の志賀さんを訪ねた。
村で配られた線量計を見せてくれた。
「これでいくら被曝したか測ってくさいだと、何のためにかってか?そりゃ俺たちをモルモットにして被曝の影響を調べるためにだっぺえ」
「最初からここは放射線量が高いのに、なぜ避難させなかったか?」
計画避難と言われてもなんも補償のこことは示されない。これじゃ避難も出来ねえべえ」と志賀さんは怒りをあらわにした。
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posted by M at 21:56| 原発

汚染された村

いつまでに原発は収まるのか?東電のロードマップが記者会見で発表された。
「こんなのは信じられねえ」と高橋さんはつぶやいた。(4月17日福島圏飯舘村長泥)
「今頃になって計画避難なんて遅い」
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posted by M at 21:49| 原発

2011年04月15日

双子の子牛

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4月12日飯舘村長泥の田中牧場で双子の子牛が生まれた。田中一正さんはこの大変な時期に双子が生まれた事を心から喜べない。
14日訪ねたとき田中さんは複雑気持ちでミルクを飲ませていた。
これからこの牛たちはどうなるのか?

前日,福島県酪農業組合は「今後、放射能調査をして、基準値内であっても飯舘村の原乳は集荷しない事になった」田中さんは「もうおしまいです」と私に会うなり言った。予想していたこととは言えショックのようだった。
蕨平地区の酪農家・大賀正次さんは「飯舘は切られた」組合は「福島の酪農を守るために」と言うが、酪農家を切り捨てておいて福島の酪農を守れるのか?そうじゃなくて本音は組合を守るために、飯舘の酪農家を切り捨てたのだ」と怒りをあらわにした。
福島県酪農業組合理事の長谷川健一さんは「全頭避難させると言っても,乳牛は一ヶ月、餌を切り詰め、乳量も落としている。公共牧場に入れてもそのまま搾乳できる訳ではない。国が全頭買い上げて貰うしかない。これが、ぎりぎりの選択だ」と言う。
posted by M at 11:39| 原発

2011年04月14日

飯舘村の牛のせり

4月13日被災後初めて子牛の競りが開かれた。
飯舘村の和牛農家も家族のように愛情を込めて育てた牛を本宮市の家畜市場に持っ持って行った。
放射能汚染で風評が広がり「20万で売れれば売ってしまおと覚悟してきた」(鴫原 照二さん)と子牛を連れてきたが、43万5千円で売れてホッとしていた。
「誰も買ってくれないかと思った」と高橋幸吉さん。通常の値がついた事で和牛農家の顔がほころんだ。

一方、3日前、政府は汚染の酷い飯舘村の住民の計画避難を決めた。
補償のことは一切決まっておらず住民の不安は募るばかりだ。
「家族と同じだと思って育ててきた。牛を置いて避難は出来ない。」「避難させるんなら全部買い取ってくれ」「汚染した牧草の補償をしてくれなければ、来年の餌がない」などの不安が渦巻いている。
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posted by M at 22:41| 原発

福島第1原発事故・見捨てられた30キロ圏外の村

飯舘村の避難が決まった。
一旦、自主避難した村民が戻ってきていた住民に不安と緊張が広がる。
「いままでここに住んでいても大丈夫だと言っておきながら突然避難しろってか?
30キロ圏内より汚染が酷いところだからなぜ早く避難させなかったんだ。今頃言われたってもう、手遅れだよ」
「牛はどうしてくれるんだ。ベコを置いて逃げるわけにはいかない。家族同然に育てて来たんだ」
「補償のことはどうなるんだ。引っ越し先で仕事を見つけられるのか?子どもの教育はどうなるんだ?」
不安は募るばかり。
枝野官房長官は「半年、1年と居住を続けた場合には積算の放射線量がさらに高水準になる恐れがあります。別の場所に計画的に避難してもらうことが求められます」と記者発表した。
とっくにわかっていたことなのに。
しかし、一切補償のことを言わない。そのことがさらに不信を招く。

posted by M at 22:04| 原発

2011年04月08日

20キロ圏内の捜索はじまる。

避難指示が出ている、20キロ圏内の南相馬市の南部で防護服を着た警察の捜索が始まった。
津波発生から一ヶ月近くが過ぎてようやく捜索。すぐ捜索が始められれば、生きている人を助け出せたかもしれないと関係者は悔やんでいる。
午前中だけで3遺体が発見された。午前10:30放射線量は1.37マイクロシーベルト/時だった。(4月8日南相馬市小高区岡田)
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posted by M at 21:43| 原発

2011年04月02日

飯舘村で高放射線量・早くきめ細かな調査を!

3月31日午前11時53分飯舘村長泥で1,10ミリシーベルト/時を検出した。屋根につもった放射性物質の塵が雨水とともに集まる所だ。
この値はこの場所に1時間居るだけで日本人の年間被曝許容量を越えてしまう。
66年前、広島・長崎の被爆者が,雨樋を伝って水槽にたまった黒い雨を飲んで,のどの渇きを癒したと言う話を聞いたことがある。
国や自治体は30キロ圏などとコンパスで線を引くように単純に汚染地域を決定するのでなく、きめ細かな調査を早急に行いその結果を早く公表すべきだ。
汚染の度合いは風向き、地形など複雑な条件で決まることは、素人考えでもわかる。

飯舘村長泥地区の消防団員の高橋亮一さんの話
「3月12日15:33分福島第1原発1号炉が爆発。夕方6時30分頃、仕事を終えて国道399号線を飯舘村中心部から峠を越え、長泥の集落に入ろうとした。
春霞のようなもやがかかり、焦げ臭いにおいとともに目がちかちかした。
家の中の空もすっかり変わっているようだったので家族とともに役場近くに避難し、その後福島市内に避難している」

長泥集落に入る峠からは遠く太平洋が見えるところがある。そこが原発のある双葉町だ。煙は南東の風にのって村まで運ばれたのかも知れない。
この地区の年寄りの話では北西の風は春先に多い、飯舘村は原発からの風の通り道になっていると。

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*放射線計測器の単位はmR/hです。
 シーベルトに換算するには一〇〇分の一にする必要があります。
写真では計測器は110,0mR/hをしめしています。
これをシーベルトに換算すると1,10ミリシーベルト/時になります。
posted by M at 12:56| 原発

2011年03月30日

福島第1原発正門前

3月27日日曜日午後、カーラジオの天気予報は晴れ、西の風を伝えた。
陸から太平洋に向かっている、絶好の風向き。この気象条件を待っていた。
原発から40キロの飯舘村での取材を切り上げ、福島第1原発に向かった。
爆発を起こした1から4号機を近くで撮影しようと考えていた。
浪江町を通過すると,放射線量が上がってきた。原発のある双葉町では車内20マイクロシーベルト・時。
13日双葉町役場で測定した時は1000マイクロシーベルトの計測器が振り切れて計測不能に落ちいたが,今回は放射線量が大幅に減っている。
誰もいない町を通り抜け国道六号線を大熊町方面に北上。
原発に近くなるにつれ、放射線量は急激に高くなる。
これより東電敷地内という看板が目に止まったが、正門ゲートは見えない。
松林の中に関連会社の事務所が点在し、一台のマイクロバスとすれ違った。
車中には作業員らしき人たちが防護服を着て乗っていた。
私も防護服姿なので、不信感をもたれることはなかった。
松林を過ぎて開けたところが正門だった。
1号炉から4号炉が展望台から見えると聞いていたので、展望台方面に向かおうとした。
道案内の看板に従って正門ゲートの右の道を入ると、道路が陥没して関連会社と思われる小型トラックが陥没した穴に落ちていた。
原発敷地内にも亀裂や陥没ができたかもしれない。
車では先に行けないので引き返し、正門ゲートの撮影をした。
ゲートの警備員が近寄ってきて「中に入るアポは取っていますか?と聞かれたので、正門ゲートの撮影をしたら帰ります」と答えた。
必死の作業がこの奥の原子炉周辺で、今繰り広げられている、という緊迫感はなかった。

放射線測定器は308マイクロシーベルト/時を計測した。
正門ゲート滞在時間10分間。
13日の双葉町滞在時間のおよそ、10分の一。

周辺の小高い丘から事故炉が見えるところを探したが、原発敷地内の丘と松林に囲まれ、外から見えるところは見つからなかった。
翌日、東電は敷地内でプルトニウム238を検出と発表した。

今週金曜日発売の「FRIDAY」と来週月曜日発売の「週刊現代」に掲載されます。


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posted by M at 20:28| 原発

2011年03月29日

無念のミルク

福島第1原発から40キロにある福島県飯舘村の酪農家長谷川健一さん(58)は「これで全部おしまいだ。いつまで続くのか見通しが全くない。このままでは廃業を覚悟しなければ」と悲痛な気持ちを語ってくれた。
3月21日出荷の停止以来、牛は牛乳を出さないわけにはいかない。
「えさを減らして乳量を減らしているが,普段乳量が多い牛ほど自分の身を削って乳を出そうとするから、ガリガリにやせた、と悲しそうに牛を見つめていた。
朝、搾乳した原乳は近くの畑に捨てられた。目ざといカラスが近くの森で絶好のえさにありつけると、廃棄作業が終わるのをじっと待っていた。
(3月29日福島県飯舘村)
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posted by M at 22:30| 原発

福島第1原発50キロ圏の高濃度汚染

30キロ圏の避難指示だけが汚染範囲ではない。
すでに40キロの飯舘村は汚染が広がっていることが大きな問題になっている。
しかし、もっと離れた50キロの伊達市月舘町の月舘小学校宇付近の地上1メートルでは放射線量はたいした事はないのだが、
住宅の雨樋の下を測定してみると、100マイクロシーベルトを記録した。(3月29
日午後3時20分)
3月15日に同市月舘町布川で高濃度の放射線を計測した。その後空気中の放射線
は減少したものの雨や雪に含まれた放射性物質が屋根に降り積もり、雨樋を伝っ
て集められたものと思われる。
こういった高濃度汚染スポットがたくさんあると思う。
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posted by M at 22:05| 原発

2011年03月27日

飯舘村の土壌汚染

家族だけ自主避難したが牛を飼っているので俺はずっと家にいた。
おれたち年寄りは被曝したって、今更どおって事ねえ、田んぼの土が汚染された。
今年の米作りはどうなるんだ。
一刻も早く土壌の検査をして欲しい」(田んぼは毎時1,578ミリレントゲンの放
射線を出していた。3月27日午12時 福島県飯舘村)
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posted by M at 21:12| 原発

2011年03月22日

福島第1原発付近住民の被曝検査

二本松市男女共生センターでは住民の被曝の検査をやっている。
双葉町住民や大熊町の住民が心配そうに検査の順番を待っていた。
会場外では自衛隊の科学防護隊が除洗作業を行っていた。{3月16日}_TM20670.jpg
posted by M at 18:58| 原発

福島第1原発の被災者

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田村市総合体育館には原発のある大熊町から逃げてきた人たちが避難していた。(3月16日)
「お茶菓子と貴重品だけもってバスに乗ってしまった。次の日に帰れると思っていたから。ペットの犬は室内のゲージに入れてきた。もう死んじゃったかもしれない。」と肩をおとして「かわいそうなことをした」と目頭を押さえた。
チェルノブイリ原発事故の時、四キロ離れた原発労働者の町プリピャチの人たちも「明日帰る」と言われて、着の身着のままで避難した。あれから25年が過ぎても人が住める状態ではない。
お年寄りが医者に行きたいがガソリンもない、何とかして欲しいと訴えた。
posted by M at 18:48| 原発

「覚悟はしています」福島原発・作業員の証言

OurPlanet-TVで3月13日に、福島第一原子力発電所そばまで取材に入った日本ビジュアルジャーナリスト協会((JVJA)のメンバーによる報告第2弾。
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/921

3月11日の地震発生当時、福島第一原子力発電所の建屋の中で計器類のメンテナンス作業をしていたTさん(27歳)。
第一原発のある大熊町(おおくままち)出身の彼は高校卒業以来、その原発の中で毎日働いてきた。
地震発生後に一時待機命令が出て、彼は家族とともに避難所生活を送っている。
地震発生当時、何が起きて何を思っていたか。
そしていま何を考えているのかを聞いた。

取材:森住卓(JVJA)/山本宗補(JVJA)
撮影:綿井健陽(JVJA)
聞き手:白石草(OurPlanetTV)

posted by M at 17:51| 原発

2011年03月19日

汚染の広がりには気象条件地形などが影響する。

福島第一原発から出た放射性物質の微粒子は空気中を浮遊し、風に乗って遠方まで運ばれてゆく。コンパスで円を描いたように半径20キロや30キロ圏内が均一に汚染されるわけではない。風向や強さなどの気象条件、さらに地形などの影響もうける。さまざまな条件によて汚染の広がりは決まってくる。3月16日にUPした3月15日の伊達市月舘町布川で測定した放射線の値が高かったのは上記のような条件が重なって、福島第一原発から58キロの地点まで運ばれたと思われる。
posted by M at 02:03| 原発

ブログ訂正のお知らせと放射線測定値

2011年3月16日UPのブログで
1、「飯館村」と記した地名を「伊達市月舘町布川」に訂正させていただきます。
2、我々が測定したは伊達市月舘町布川は福島第1原発から58キロ(グーグルアースによる測定)の地点でした。
「福島第一原発から58キロ離の地点だ。」に追加訂正させていただきます。
posted by M at 01:36| 原発

2011年03月17日

福島第一原発作業員へのインタビュー

3月16日
福島第一原発のある大熊町の人々は現在いくつかの避難所に避難している。
その中の一つで、大熊町在住で福島第一原発のメンテナンスをしている人にインタビューを行った。(匿名で後姿だけ撮影、音声を変えることを条件にインタビューに応じて下さった。)

 「地震発生時には施設内にいましたが、発生後すぐに屋外に出ました。その後、施設内の事務所に全員集まり、私は自宅待機を言い渡されました。避難指示後、家族とここに避難してきました。
もし招集がかかれば私も当然行きます。それが私の仕事ですから。その時は最悪の事態も覚悟しています。現在、施設内では千人から数百人が決死の覚悟で作業をしています。今後、この原発事故をどう収拾させることができるかは誰にもわかりません。最悪の事態も考えられます。炉心溶融も考えに入れておかなければならないと思います。」

現在は地元出身者以外で作業をしているとのこと。彼らの決死の作業に数百万の命がかかっている。彼らは、これまで安全だと言い続けてきた政府や電力会社の尻拭いをさせられている。
(本日はネット環境の関係で写真を掲載できません。)
posted by M at 09:35| 原発

2011年03月16日

福島第一原発から58キロ地点の伊達市月舘町布川2

ものすごい汚染を知った食品店のおばちゃんは、すぐに店のシャッターを下ろして避難すると言っていた。
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posted by M at 07:49| 原発

福島第一原発から50キロ地点の伊達市月舘町布川

宿にしていた三春町に戻る途中の伊達市月舘町布川で念のため放射線を測定した。
第一原発から50キロの地点だ。
驚いたことに東京の数百倍の放射線を出していた。放射線測定機を持ってきた広河隆一さんは「現在のチェルノブイリ事故機の横で測った時よりも高くなっている」と語った。
測定中に集まってきた住民に知せて、すぐ避難したほうがいいですよ、と伝えた。
(3月15日16:30)
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posted by M at 07:47| 原発

「原発爆発爆発この先立ち入り禁止」の看板

避難指示が出された双葉町方面に向かう道路が封鎖されていた。
ときどき、住民が封鎖地域内から避難していった。すでに、この地点も東京の数
百倍の放射線を出していた(3月15日12時50分)
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posted by M at 07:40| 原発

2011年03月13日

福島第一原発 JVJA DAYSJAPAN プレスリリース

森住卓を初めJVJA福島原発取材班はプレスリリースを発表しました。

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三月一三日午前10時20分、双葉町役場玄関付近で放射線を計測。
三台の機器を使用(GEIGER COUNTR DZX2は1000マイクロシーベルト/時以上,VICTOREEN 209-SI10ミリレントゲン/時以上,MYRate PRD-10/19,9マイクロシーベルト/時)
すべての測定器が振り切れた。
10時30分頃 双葉町厚生病院玄関前でもすべての計測器が振りきれた。国道288号線を双葉町に向けって多くの人々が自宅に向かっていった。
すべての住民が双葉町の高汚染について知らなかった。
我々は双葉町に向かう住民の車を止めて、長時間の滞在は危険であることを知らせた。
半径二〇キロ圏内立ち入り禁止の表示はなかった。また、検問もなかった。

問い合わせ先:JVJA携帯:090−6101−6113

取材者;JVJA山本 宗輔、森住 卓、野田 雅也、豊田 直己、綿井健陽、DAYS JAPAN編集長広河隆一

参考:広河隆一(談)
二月末のチェルノブイリ原発取材で、事故炉から二〇〇メートル付近で計測した値は4ミリレントゲン。事故炉から四キロ離れた、プリピャチ市で計測した値は0,4ミリレントゲンでした。
(なお、広河隆一、森住 卓はチェルノブイリ原発、世界の核実験場など核汚染取材のスペシャリストである)
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写真:
双葉厚生病院1F検診室でも放射線測定器が振り切れた。

双葉町役場前の時計は地震発生時を示したまま止まってしまっている。

役場に続く道には「原子力郷土の発展豊かな未来」という標語が掲げられていた。
町はゴーストタウンとなっていた。
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posted by M at 19:14| 原発

2011年03月12日

福島県郡山市に着きました。

広河さんと車で都内を午前11時に出て福島県郡山市に午後9時につきました。
郡山市内のホテルは避難民で一杯。一般客は泊まれません。仕方ないのでいったん引き返し郡山の手前の須賀川のホテルにチェックイン。ここも、すでに満室で相部屋。ロビーにも泊る人がいる。
いわき市から被ばくを恐れて避難してきた若い人たちもいた。まだ、残っている人がたくさんいると。
郡山からいわき市内に行く道路は閉鎖されていない。
明日から本格に取材開始する。
posted by M at 22:55| 原発

2009年12月10日

上関原発予定地に飛ぶハヤブサ

長島の原発予定地入り口で向かいの車をやり過ごすために待避していると時上空にハヤブサが現れました。その背後にトビが迫って来ました。空中戦が始まろうとしたときハヤブサは急降下してトビの攻撃をかわして鼻繰島の方に消えていった。
ハヤブサは環境庁絶滅危惧種に指定されている。

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追跡するトビ(左上)と追跡をかわすハヤブサ(右下)

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posted by M at 10:17| 原発

2009年11月19日

上関原発 祝島の鯛漁

あさ7時、鯛の一本つりの船に乗せてもらった。鯛釣り40年以上のベテラン漁師
安藤旭さん(67)だ。
「今日はいい天気になる」と安藤さんが空を見上げた。
祝島と小祝島の間に船を止め、撒き餌をまく。推進10メートル。潮の流れはけっこう早い。
エサは小エビの生き餌。まさにエビでタイを釣る、です。
昨夜、採ってきた小エビが船の生け簀にびっしり入っている。
ピンク色の美しい小エビを針につけ糸をたらす。一本の糸に5本の針がついてい
る。海底に着いたおもりをひとひろほど巻き上げた瞬間グッと引いた。安藤さん
と私の目あった。無言で糸をたぐり寄せる。30センチほどの型の良いピンク色の
美しい鯛があがってきた。
撮影に夢中になっている私に「あんたもやんさい」と釣り糸を準備してくれた。
カモメが船の近くで撒き餌のおこぼれを狙っていた。じっと待っているとグイと
小さい引きがあった。たぐり寄せるたびにググとひく。指先に伝わる感触が心地
よい。小一時間に3匹ほど釣った。2回目の鯛釣りにはまってしまった。
「きれいな海があればずっと生きていける。お金(補償金)は一時でなくなって
しまう。海が汚れればさかなが捕れなくなるし、売れんようになる。わしゃ、2
人の子どもをこの海で育てもらったんじゃ。絶対に原発反対じゃ」と安藤さんは
つぶやいた。
予定地の田浦湾には台船が係留されて、工事の再開の機会を狙っている。
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posted by M at 19:39| 原発

2009年11月17日

祝島月曜定例デモ

原発反対ののぼりを持った中村隆子さん。20年前に撮影したモノクロ写真にも先
頭でのぼりを持つ姿が写っていた(右側)

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posted by M at 19:41| 原発

月曜定例デモ 

28年間建設に反対してきた祝島の島民は毎週月曜日夕方島内をデモして原発建設
反対を訴えている。
4半世紀以上も反対を続けてきた島の人々の顔には深いしわが刻まれていた。

--
森住 卓
takashimorizumi
http://www.morizumi-pj.com/
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posted by M at 19:41| 原発

2009年11月16日

20年前の祝島

沖縄県東村高江のヘリパット問題の報告はいったん中断させてください。
明日から山口県上関町の原発建設に反対する祝島の取材に行くためです。
高江の報告を楽しみにしていただいた方お許しください。今月末から再開しますので。

写真はちょうど20年前に撮影した写真です。
写真に写っている方は今も元気でご活躍でしょうか?再会できるとうれしいですね。



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posted by M at 00:23| 原発