2010年02月10日

カブールT Vアンテナの丘

この丘は夕日が西の山に沈む頃、とてもフォトジェニックな風景になるのです。
子どもの頃を思い出す、懐かしいタイや転がし。早く止めないと谷そこに落っこちる。
takashimorizumi
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posted by M at 10:48| アフガニスタン

2010年02月02日

カンダハールの学校

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照明器具の無い教室で子どもたちが勉強している。土壁につけられた窓から外の光が差し込む。少し時間がたって室内の暗さになれてきた。いすや机はない。土間に子どもたちがぎっしり座っていた。高い窓から差し込む光で子どもたちの目が光っていた。
カレーズの会が進める医療と教育支援の一つ、子どもたちに教育をすすめるために学校のないカンダハール郊外に学校を作っている。
建設の終わった新しい校舎で今春には授業が始まる。
新校舎の窓が開け放たれていた。その理由は近くでたびたび爆弾が爆発し、その衝撃でガラスが割れてしまうので開け放しにしているという。窓はガラスではなくビニールシートの方が安全だと管理人が言っていた。
posted by M at 19:45| アフガニスタン

2010年02月01日

アフガニスタン人の平均寿命

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WHOの世界保険統計2008年によれば、乳児死亡率12,9%、5歳以下の死亡率は25%。生まれて3,4人に一人以上が無くなってしまう。貧困、戦乱、栄養失調や不衛生などによる。さらにユニセフの発表によれば(2007年)母親の出産時における死亡率は10万人分の1800人。日本の350倍も多い。
平均寿命は44,6歳。日本人の平均寿命の半分ぐらいしか生きられないと言うことになる。
アフガニスタン人も日本人も同じ地球に生きる人間。生まれ落ちた土地がアフガニスタンと日本というだけで、こんな不平等があって良いのでしょうか?
posted by M at 10:20| アフガニスタン

2010年01月13日

タリバンと取引するアメリカ

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「路上爆弾は米軍が仕掛けている」とジャララバードにあるラワイ81基地を警備していたアフガン軍兵士たちが話てくれた。
11月アフガニスタンの西部ヘラートを移動していたアフガン軍のトラックが路上爆弾で大破した。その直前にこの道路を米軍が封鎖していた。封鎖が解除された直後にアフガン軍が通過して爆発が起こった、という。同じような話はイラクでもたくさんあった。
さらに、私の通訳の友人がアフガン国軍に入ったが、最近イランに逃げたという。
以下、友人の話だ。
米軍とタリバン掃討作戦中に戦闘になった。アフガン軍が前面に出て米軍が背後から支援する、これが通常の戦闘パターンだった。ところが米軍ヘリが飛んできて、アフガン軍の頭上を飛び越え、タリバンの背後に米軍ヘリが着陸した。そして武器をタリバンに渡していたという。なんと米軍がタリバンを援助していたのだ。こんな軍隊にいられないと軍を脱走してイランに逃げたというのだ。

こんな話を聞いていると、泥沼から抜け出したいアメリカは腐敗しきって国民から見放されたカルザイ現政権に見切りをつけ、タリバンも含めた和解の方向を探り始めたようだ。
敵にしたり味方にしたりアメリカは本当にご都合主義でアフガンの事なんか一度も考えたことがないんじゃないか。
posted by M at 09:40| アフガニスタン

2010年01月05日

カブール通信10

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カブールからジャララバードに通じる街道沿いはカブールの境界まですっとこんな軍事基地が続く。米軍なのかAISAFなのかアフガンニスタン軍なのか。アメリカはこの辺にもたくさん秘密基地を作っているらしい。万里の長城ににた壁が延々と続いていた。

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壁の町カブール。
パレスチナやバグダッドのような分厚いコンクリート壁が町を仕切る。テロを警戒して政府機関、国連関係、外国人の多く住んでいる住宅地など近寄ると警備の警察官や兵隊がカラシニコフを持って何してると寄ってくる。指は引き金にかかっている。

posted by M at 23:22| アフガニスタン

カンダハール通信7

今朝は早めに起きました。ホテルの部屋から見る日の出は私の今年最初に見た日
の出でした。
夕方カブールに戻りました。
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posted by M at 00:41| アフガニスタン

2010年01月04日

カンダハール通信6

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受信を待つ女性たちでいっぱいの診察室。若い医師に患者の処置について打ち合わせをするレシャードさん。アフガニスタンにはもともとカルテがなく患者の管理を系統的に出来なかった。この診療所で始めてカルテをとり入れて患者の状態を把握できるようにした。

各地の病院を訪ねて、何の病気が増えているのかと尋ねても、「増えている」と医師は答えるが、その裏付けのデーターが欲しいと言うとそれは「ない」と言う。「なぜ?」と不思議に思ったが、カルテを使うことを医師たちが知らなかったのだ。そのためにデーターの集計も蓄積も出来なかったのだ。

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なんでも親身になって聞いてくれるレシャード先生に生活のことまで相談する女性の患者さん。
posted by M at 21:59| アフガニスタン

カンダハール通信5

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レシャード先生の案内でカレースクリニックを訪ねた。
まだ、診療所到着8時50分まだ診療受付は始まっていないのにたくさん患者さんが受付を待っていた。
夫か兄弟か二人の男が若い女性を車いすに乗せて連れてきた。女性の年齢は16歳。
出産後二週間以上、出血が止まらないという。早速レシャード先生と産科の女医さんが診察した。貧血であおい顔をしている。
炎症を起こして感染症が広がってしまったという。母乳も出ないので村の近所の女性の母乳を飲ませてもらっている。
「ここに来れば助かると評判を聞いてみんな来るんですよ」とレシャード先生。

顔と背中に火傷を負った8歳の少女が来た。
職員との打ち合わせを短時間で済ませたレシャード先生は診察室に入る。待っている子どもにも挨拶をする。
男のレシャード先生が女性たちに握手を求めるとためらわず応じる姿はこの国では珍しい風景だ。

診療室でレシャード先生と若い医師が診療を始めた。女性患者と男性患者は別の
建物で別けられている。今日は女性の患者を診察している。診察室は患者で座る
余地もなくなった。床に座って順番を待つ女性はブルカの上からでは表情がわか
らないが手の仕草や小さな声で会話する女性たちの不安そうな表情を想像できる。

レシャード先生はどの患者にも分け隔てせず、親身になって患者の訴えに耳を傾
けている。おそらく、患者はここに来る前に自分の訴えを親身に聞いてくれる医
師に出会うことはなかったのではないか。その安堵の表情がブルカを通してもわかる。
昨年、静岡県島田市のレシャード医院を訪ね、診察を見させていただいたときには患者へ絶えず笑顔を送っていたが、
ここではあの笑顔がほとんど見受けなかった。患者を取り巻く状況はそれだけ深
刻なのだ。
posted by M at 15:11| アフガニスタン

カンダハール通信4

アメリカの戦争犯罪の犠牲者が連日たくさん生まれている。
今日はカンダハール州立病院の外科の救急病棟に行ってきた。
この数日間で空爆、米軍基地からの砲撃、アメリカの仕掛けた地雷の爆発などでたくさんの負傷者が運び込まれており,病棟のベッドは一杯だ。
ここは最前線の野戦病院のようだ。滞在中も負傷した血だらけの老人が運び込まれた。
みな無実の農民や市民だ。外科部長は「我々のおじさんがくれた地雷で犠牲になった」と「市民を守るという」米軍を皮肉いっぱいに言っていた。
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posted by M at 01:14| アフガニスタン

2010年01月03日

カンダハール通信3

市内シェイダーン広場には早朝から職を主止めて集まってくる失業者がいる。
スコップを担いだ男たちが職にありつけた。今日は路肩の側溝掘りだ。みな職に
ありつけて嬉しそうだった。
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posted by M at 12:00| アフガニスタン

カンダハール通信2

カンダハール到着2日目。
カレースの会の診療所に行ってきました。ここで一日取材をしていました。この報告は後日おこないます。

診療所からの帰り道に出会った米軍戦闘トラックです。
車の中から見つからないように撮りました。
「無条件で撃ってきますから気をつけて」と助手席のレシャード先生が静かに忠告してくれた。空港に通じる通称「DethRoad 死の街道」とばれている道です。路肩爆弾が爆発し、絶えず米軍が狙われ無実の市民が殺された。アフガン人の車は一斉に脇に寄ってやり過ごす。後を追う車も十分間隔を空けて用心深く運転している。
この道路脇に「近寄るな.さもなくば殺す」と米軍が大きな看板を出したという。侵略者の意識丸出しだ。さすがの米軍もこの看板の評判を気にして最近撤去したという。
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昨夜、着陸したカンダハール空港にはたくさんの無人爆撃機が格納庫に駐機していました。ここからパキスタン国境まで数十キロしかない。ここから出撃して隣国パキスタンを爆撃している。タリバンの村だと言って。罪もない市民が殺されている。明確な国際法違反だ。国際社会は黙っていて良いのか?正義はどこに行ったのか?

posted by M at 02:11| アフガニスタン

2010年01月02日

カンダハール通信1

明けましておめでとうございます。
1月2日あさのカンダハール中心部シェイダーンの様子です。
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posted by M at 12:23| アフガニスタン

2010年01月01日

明けましておめでとうございます。@カブール

カブールより新年のご挨拶を申し上げます。

年末、押し迫って世界各地でテロが発生し物騒な年末でした。
当地ではオバマが米軍3万人増派するための口実にするため、タリバンと手を組
んでテロを各地で起こしているという事がまことしやかに言われています。
いずれにしてもアフガニスタンも、イラクも外国軍隊がいるかぎり、平和と安定
は来ません。世界中から外国軍隊が引き上げる声をあげていきましょう。

沖縄の基地も同じです。たらい回しではなく、基地撤去、米軍は米国に引き揚げ
てもらうことで問題は解決します。問題はとても単純なのになぜこのことがわか
らない人が多いのでしょうか。

さて、今年も怒ることばかりで新年が明けてしまいました。
少しでも世界が良い方向に向かうように、一人一人が声を上げるときです。
いま、世界を変えるチャンスです。

これからカンダハールに行ってきます。

--
森住 卓
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posted by M at 15:43| アフガニスタン

2009年12月31日

ジャララバード通信10

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新生児の集中治療室(ICU)

ナンガハル医科大学学長の「長年の戦争で失った物は大きい。今必要な物は図書館と検査部門の充実だ。日本から援助された機器の使い方を誰もわからないので教えて欲しい。いまは倉庫に眠っている。ここでもODAの役立たず援助があった。
学長は本当に役立つ、更なる援助を求めていた。

会見後、教育病院を訪ねた。
小児科を訪ねたとき驚いたのは新生児の集中治療室だ。日本では様々な医療機器が備えられ、常時赤ちゃんの状態を把握できるようなっているが,ここにはないもなかった。
新生児の保育器は手作りで酸素マスクの替わりに透明なプラスティック管を切って作った手製酸素カプセルが新生児の顔にかぶせてあった。さらに、手作りの木製保育器に赤ちゃんが入れられていた。すべてが不足でも医師や職員が様々な工夫をしていた。
posted by M at 17:17| アフガニスタン

ジャララバード通信9

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(アサドゥーラ シンワリ医学部長と会見するレシャード・カレッド医師 ナンガハル州立大学医学部)

「日本は我々が唯一信用できる国です」ナンガハル大学医学部長と会見したときの言葉が印象に残った。
日本ボランティアセンター(JVC)の要請でジャララバードを訪れている、静岡県島田市の医師レシャード・カレッドさんに同行させていただいた。
 レシャード先生については「知って欲しいアフガニスタン」(高文研http://www.koubunken.co.jp/0450/0430.html)の自著があるので是非読んでいただきたい。

「時には助けるために我々に武器を与えてくれた国が、時には我々の敵にも武器を与えていた。我々は誰を信用して良いのかわからなくなる。日本はその点で唯一信用できる国です」と。
イギリス、旧ソ連、そして、いまアメリカの侵略を受けている国。そのたびに西欧の都合で敵味方を決められてきたアフガンの歴史を背負った学長の言葉はとても思い意味を持っているようでした。
そして、日本の支援のあり方を鋭く問うている言葉でもありました。
威厳と優しさをたたえた医学部長の風貌は外からの柔らかい冬陽が差しが当たり、とてもフォトジェニックでした。
posted by M at 16:58| アフガニスタン

2009年12月30日

ジャララバード通信8

カブールに帰る途中、カリフラワーの買い出しに来た峠の警備の警官。カラシニコを持って買い出しだ。10日ほど前に谷の両側からガソリンを満載したタンクロリータリバンにロケット砲で攻撃され炎上した。6人が死んだと言っていた。
ジャララバードの町中は治安が安定していても市外に出れば危険だ。このタンクローリーはカブール北のバグラム米軍基地に向かっていた。「だから狙われた」と警察官が言った。
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posted by M at 02:13| アフガニスタン

ジャララバード通信7

カブールへの帰り道、道端での農家の人がカリフラワーを売っていた。
有機肥料を使っているから日本の物よりすっと大きく、かじってみたら甘みがあっ
ておいしい。
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posted by M at 01:52| アフガニスタン

2009年12月28日

ジャララバード通信5

ジャララバードの中心部に毎朝早くから男たちが集まってくる。
手には左官のコテ、ペンキ塗りの刷毛、金槌、のみなどをそれぞれ持っている。
「ひと月に何日も仕事にありつけない」と口々に言う。ざっと数えただけでも500人くらいの男が集まっていた。
アブドールさんは12人家族で子どもたちはみんな学校に行っている。「今月は4日しか働いていない。職にありつけても一日働いて300アフガニー(600円)だ。子どもたちに十分食べさせることが出来ない」と言った。

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posted by M at 22:54| アフガニスタン

ジャララバード通信6

ジャララバードの中心部から外れたところにファームハダ小中等学校がある。
ここは校舎がない。青空教室だ。雨になれば休みだ。
2002年に訪れたときには子どもの数も少なかった。戦争が終わった直後で、避難していた人たちがまだ戻ってきていなかったからだ。
いまは子どもの数はなんと4000人の大きな学校だ。

午前中は男の子、午後から女の子の二部制だ。
ファームハダ地区は戦乱を避けて各地から避難してきた国内難民が住み着いて出来たキャンプだ。そのため貧困家庭の子どもだ。
「青空教室では周りに気が散って子どもたちが授業に集中できない」「たくさんのジャーナリストが取材に来たが、なにも良い結果をもたらさなかった」とナジブラ校長は言った。
もう二〇年以上も前から、ここのこどもたちは青空教室で勉強してきた。
校舎を建てて欲しいと政府に要求しているがここは町との境界線上にあるので建設できないと言われた、という。
学校に来ることが楽しいと言う子どもたち。青空教室でも子どもたちの瞳は輝いていた。
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posted by M at 22:53| アフガニスタン

2009年12月27日

ジャララバード通信4

今日は土曜日なのだけれどなぜか休みになってしまった。
誰もその理由を知らない。
シーア派のお祭り「アシュラ」だからのか?
夜の町は賑わい、カメラを向けるとたくさんのひとが集まってきてしまった。

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posted by M at 23:07| アフガニスタン

ジャララバード通信3

昨夜、食べたマントゥ屋のおじさん。
小麦粉をこねて包むと言うより肉と一緒に固めたものを蒸し器で蒸してヨーグル
トと刻んだ野菜がふりかかっていた。おいしかった。
マントゥは中国からシルクロードを経て伝わったのか、ソ連占領時代にロシアか
ら伝わったのか?

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posted by M at 23:02| アフガニスタン

ジャララバード通信1

カブールから1時間半。眼下にパンシール川見えた。
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posted by M at 18:52| アフガニスタン

ジャララバード通信2

昼前にジャララバードにつきました。2002年に通過した同じ道路はすっかり良く
なり、全線舗装されていました。
カブールからの道中、なにも危険を感じず、チェックポイントもノーチェックで
した。前日ガイドが「何も心配いらない」といっていたのですが半分信じられず
緊張していました。
しかし、警戒するのには超したことはありません。十分用心します。

午後からジャララバードの西に1時間ほどにあるパキスタンからの帰還難民のチャ
ムタラキャンプに行ってきました。
西の彼方には雪を抱いた山々が聳え冷たい風がキャンプに吹いてきます。砂漠と
言っても石がごろごろした土漠です。草木一本も生えていません。延々とキャン
プが続いていました。その数は正確にはわかりませんが1千人以上が住んでいる
と言います。
彼等は二年前までパキスタン・ペシャワールのカチャガリーキャンプにいた人た
ちです。帰還政策でアフガニスタンに戻りましたが、当初のキャンプは政府が公
園を作る事になって追い出され、あらたに政府が提供した代替えの土地は砂漠の
ど真ん中でした。他に行くところがない人々はここに土と石とビニールシートで
小屋を造りキャンプを始めました。すでに一年が過ぎ、お金のある人は自分の土
地を石積みの塀で囲み,家を建て始めていますが、まだ、多くの人は石と土の粗
末な小屋に住んでいます。
2日に一度、給水タンク車が来ます。1家族二〇リットルの給水では食事をまかな
い洗濯するのが精一杯。足りなくなことの方が多いのです。
ちなみに、イラク駐留の米兵には一人飲用の水が1日二リットルが目安で支給さ
れていました。この計算で行くと10人家族では飲用だけで終わってしまいます。

 冬の寒さをしのぐ暖房器具はありませんでした。もちろん電気は来ていません。
夏は四〇度を超す日が連日続くところです。どうやって暑さをしのいだのでしょ
うか?想像に絶する過酷な生活です。
私が訪ねた地域では男たちが集まってきて口々に、国連や政府は何もしてくれな
い。外国からの援助は自分の懐に入れて肥え太ってしまった。腐敗した政府を怒っ
ています。
それでも、人々は生きてゆかなければならず、少しずつお金を貯めて家を建て始
めています。人々の懸命な努力とエネルギーには頭が下がります。
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posted by M at 18:52| アフガニスタン

2009年12月26日

カブール通信9

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〔写真〕昨日行った、帰還難民のパルワンドゥーキャンプのマリアムちゃんと妹

これから、ジャララバードに行きます。
現地の通信状態によってはブログ更新が出来ないかもしれませんがとりあえず四日間、カブール通信はお休みします。
posted by M at 11:54| アフガニスタン

2009年12月25日

カブール通信8

モハメッドさんに話を聞いているときキャンプの入り口で大騒ぎになっていた。
篤志家が時々援助物資を届けてくれるのだ。
肉や米、油、子どものおもちゃなどが届けられた。集まった人たちは我先に必死
だった。
個人の善意に彼等の命が支えられていた。
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posted by M at 22:54| アフガニスタン

カブール通信7

昨日訪ねた、国内難民キャンプのパルワンドゥーに行ってきた。
モハメッド・サラーム(37)さんのテントを訪ねると「食料がこれで終わりだ」と
ライスの入った鍋を見せてくれた。子ども4人と夫婦の食料が明日はない。
モハメッドさんが仕事にありつけたのは一週間前。市場で買い物客の品物を運ぶ
仕事だ。一日がんばっても50アフガニー(100円)しか稼げない。米が1キロも
買えない。おまけに妻が風邪を引いて咳がひどい。医者に行きたいがお金がない
からいけない。生後6ヶ月になる赤ちゃんも心配だという。
タジク人のモハメッドさんはカブールの北、バグラムの近くの村に住んでいた。
タリバンがやってきてマスードの軍隊と戦闘になり村は破壊されたくさんの村人
が殺された。その後村を捨てパキスタンのペシャワールに逃げて難民になった。
1年半前にパキスタンが難民送還を進めてしかたなく、カブールにやってきた。
ここは仕事もない。家もないので自分で家を建てた。土の壁の家は寒さを防げる
ような物ではないが他に住むところはないので仕方ない。
オバマ大統領が3万人増派した、彼らはチキンを食べライスも食べる。我れ我わ
には食べるものがない。米軍など必要ない。アメリカから何をもらったのか。我
々は何も受け取っていない。
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posted by M at 22:51| アフガニスタン

カブール通信6

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昨年訪ねた難民キャンプがどうなっているのか気になってカブール市西部の国内難民キャンプを訪ねた。
昨年訪ねたときは冬の前だった。土を固めた壁にビニールシートをかぶせただけのテントは厳しい冬の寒さを防げない。テントと言うより周りを土で固めた掘っ立て小屋だ。暖房器具もない人々はどのようにしのぐのか心配だった。
中をのぞくと日本のこたつと同じようなものがあった。分厚い布団を掛けたこたつの中には炉があり、灰の中に炭が埋め込んであっルらしい。唯一の暖房器具だ。足を突っ込んでみたが大して暖かくなかった。

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シケバさんは自分の年齢を正確にわからない。カブール近郊で生まれ,幸せな生活を送っていた。タリバン政権時代に父親を殺され、結婚後夫がタリバンにつかまって拷問を受け、精神が狂ってしまった。現在行方不明だ。彼女は4人の小さな子どもたを育てている。学校に行ったことがない彼女は文字も読めないし、自分の子どもの生年月日すら覚えていない。自分の年齢すら知らない。生き残るために毎日きりきり舞いしている彼女にとって覚えている意味がないのかもしれない。収入のない彼女はお金持ちからの施しや時々来るNGOの援助で暮らしている。読み書きの出来ない彼女に就職できる希望もない。「政府は私たちに家と仕事を提供して欲しい」と言った。
posted by M at 14:07| アフガニスタン

2009年12月24日

カブール通信5

カブールの旧ソ連文化センターのビルは麻薬中毒患者の巣窟になっていた。
ソ連への抵抗とその後のムジャヒディン各派の闘いで破壊し尽くされた建物にいつの頃からか麻薬中毒患者が住み着くようになった。建物の中にいる中毒患者は1000人とも2000人とも言われた。
内部は無法地帯で近寄ることも出来ななった。
今年、アフガン政府はここを封鎖し中にいた麻薬患者を治療と社会
復帰の施設に収容したといわれている。
しかし、多くが施設に入るのを嫌って逃れた。
19歳のサイードと会ったのは旧ソ連の軍事工場だった破壊された建物の中だった。
至る所に銃痕が残り、ムジャヒディンの激しい攻撃にさらされ、まるでローマ時代の遺跡のようだ。冬の日差しで暖をとりながら、壁にもたれかかり、リザ(19)と二人で腰を下ろしていた。二人の足下には使い捨てた注射器やフェロインを熱するアルミホイルが散乱していた。同い年の二人はイランに難民として逃れていたが、9歳の時に悪友に誘わて、大麻を始め、それからは転げるようにフェロインやモルヒネを打つようになった。イランで麻薬所持が見つかり本国のアフガニスタンに強制送還されてしまった。
家族とは別れ別れ別れになって、今は連絡が取れない。
ここに来ればドラッグが手に入ると、2ヶ月前にやってきた。ひと包み0,5グラムのフェロインが50アフガニー(約90円)で簡単に手に入る。細いストローで煙を全部吸い込むサイードの額には大きな切られた傷跡が残っていた。ざっくりと刻まれた傷跡は彼の19年間の過酷な人生を物語っているようだ。
このままでいいとは思っていないが抜け出せない、土色の顔に目だけがぎらりと光った。人生でもっとも輝くはずの19歳。しかし地獄のような日々からどうしたら抜け出せるのかそのすべはない。
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posted by M at 23:43| アフガニスタン

カブール通信4

昨日から気になる、飛行船の見える風景。
バグダッドでも同じ飛行船を見た。米軍が飛ばしているのだろう。
カメラをぶら下げ、監視している。何を監視しているのか?
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posted by M at 22:33| アフガニスタン

カブール通信3

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(ケバブを焼く煙と買い物客でごった返すマンダビー通り)


一年前よりも活気があるカブールの町。
電気も24時間通じている。しかし相変わらず仕事がないと男たちは言っている。
posted by M at 01:18| アフガニスタン

カブール通信2

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国内難民(IDP)の子どもたちが水くみに行ったのですが、今日は断水で戻ってき
ました。料理用だけにして節約する、と言っていました。話は深刻なのに子ども
たちの明るさに救われる。(チャルヒーカンバールIDPキャンプ)
posted by M at 01:14| アフガニスタン

カブールに到着しました。

12月22日カブールの到着しました。
ドバイからのアリアナ航空の飛行機は5時間も遅れてしまいました。ドバイ空港
では何のインフォーメーションもなく、ひたすら待っていました。
カブール空港に着陸したときには7時半を回っていました。
真っ暗な空港に照明で浮かび上がったのは米軍ヘリでした。


http://www.morizumi-pj.com/
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posted by M at 01:11| アフガニスタン