2008年12月31日

年越し

大晦日、派遣斬りされた人やホームレスを救援するテント村の取材に行ってきました。
たくさんのメディアが押しかけていました。彼らが宣伝してくれるのはいいけれど、ぼろ儲けした大企業の内部留保をはき出せと一言も言わない報道姿勢に腹が立って仕方ありません。

民間の人が年末年始を返上して、寝るところも、食うものもないストリートの人や派遣で首斬られた人の救援をしているボランティアのみなさんの姿は、頼もしいですが、この国の政治は何をしているんだと日比谷公園の噴水を見ていてこれまた腹わたが煮えかえりました。
トヨタの内部留保の0,2%をはき出せば、派遣斬りをやらなくて済むのにTVはトヨタの赤字を大きく報じ、企業も苦しいんだから首斬られても仕方ないと。TVはトヨタの味方なのか???
首斬られ年末の寒空にに放り出された労働者は人間じゃないのか???
いまこそ大企業の儲けをはき出させるための政治を行わせなれれば救われない。
自や民や公、社民なども政党はみんな大企業からお金貰って妾になっているから
大企業に何にも言えない。何にも遠慮なしに大企業にものが言えるのは共産党だけ。
ここに日本の政治の貧困がある。
写真は救援物資の米。
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2008年12月30日

新刊「沖縄戦『集団自決』を生きる」の反響2

座間味島の宮里芳和さんには座間味で取材中たいへんの世話になりました。
芳和さんは地元で「集団自決」の調査をずっと続けています。
原稿を書いている途中でも、疑問点が出てくるとすぐ電話して教えていただきま
した。

新刊が刷り上がったのでお送りしました。
すぐにご自身のブログにUPしていただきました。
「パパイヤ光太郎」のブログです。
http://zamami.blog97.fc2.com/blog-entry-385.html
ご覧ください。

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森住 卓
http://www.morizumi-pj.com/
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新刊本「沖縄戦『集団自決』を生きる」の反響

新刊本「沖縄戦『集団自決』を生きる」は発売日(2009年1月15日)前から反響が寄せられています。
日本ジャーナリスト会議代表委員の亀井淳さんからメールが届きました。
紹介したいと思います。
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「極限の惨劇」はいろいろな方法で次代に伝えなければなりません。森住さんの写真と文章はその方法として最適です。キレがあり、リズムがあり、過剰な情緒がありません。
小さな集落が戦争に襲われる。そこを守る「はずの」軍隊がいた。だが、その「友軍」は集落の人に殺し合いを強いる存在だった。本来なら、助け合い、かばい合い、いたわり合うはずの家族、肉親、隣人は、にわかに殺し合いの塊に変わった。こんな恐怖譚が実際にあったのです。それをあなたは書いて、撮して、本にしてくれた。ジャーナリストとして、究極の仕事です。 
 この本を普及する必要があります。その方法を考えましょう。
 改めてお礼と敬意を表します。
==============================
亀井淳さんは1980年代後半、米軍基地建設に反対し島ぐるみの闘いが行われていた東京都伊豆七島の三宅島でお会いし、一緒に取材を史、1988年に「ドキュメント三宅島」を記事亀井淳、写真森住卓の共著で出版しました。以来のおつきあいです。

亀井さんありがとうございました。

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ちょっと古い写真ですが、当時の三宅島で撮影した写真です。
基地が出来ないようにお百度参りをするチヨばあちゃん(1987年8月三宅島富賀神社)
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2008年12月28日

新刊『沖縄戦「集団自決」を生きる』(高文研)

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新刊『沖縄戦「集団自決」を生きる』(高文研 1400円+税)のお知らせ。http://www.koubunken.co.jp/0425/0413.html

64年前太平洋戦争末期、沖縄本島西方海上に浮かぶ、慶良間諸島で何が起こったのか。
「生きて虜囚の辱めを受けず、米国捕まれば男は八つ裂きにされ、女は強姦される」と日本軍に教育されたていた住民は、米軍上陸の直後、アメリカの手にかかるより、親が子を兄が妹や弟を父を母を殺していった。いわゆる「集団自決」だ。
肉親同士が殺し合うという世界史の中でも特異でもっとも悲惨な出来事だった。

なぜ、この悲劇が起こったのか?その事を自問しながら取材を続けた。
肉親同士が殺し合う「集団自決」は長い間語られることはなかった。事実、体験者の何人もが「このまま墓場に持って行こうと思っていた」と証言されている。

しかし、憲法9条を変え戦争の出来る国にしようとする勢力が『「集団自決」は軍命ではなかった』として沖縄戦の真実を塗り替えようとしているとき、心の奥にしまい込んでいた
辛い体験を語り始めたのだ。

体験者へのインタビューは心の傷口をこじ開け、塩を塗り込むような苦痛を味あわせるような残酷さを、持っていた。そうしなければ歴史の真実をあ
ぶり出すことができなかった。

撮影は悲惨な証言とは反対に出来るだけ、明るい表情を撮影したかった。
あの未曾有の体験を乗り越え、生き抜いた証(あかし)として。そして、これからも幸せに元気で長生きして欲しいと思ったからだ。
渡嘉敷島11人、座間味島15人の証言と表情豊かな写真とともにまとめた。
多くの人にこの事実を知って頂きたいと思っています。

すでに、刷り上がった本を証言していただいた島の皆さんにお送りした。早速、
「出版していただいてありがとうございます」「私の体験を本にして残していた
だきありがとう」などお礼の電話をいただきました。
体験者が勇気を振り絞って証言していただいた事に報いることが出来たと思っています。

購入ご希望の方は以下のサイトから申し込むことが出来ます。
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2008年12月08日

アフガン医療支援 年末年始カードキャンペーン

アフガニスタン医療支援として年末年始の挨拶状などに写真データを使っていただくキャンペーンを始めました。
1月末まで期間限定です。
詳しくはこちらをご覧lください。
年末年始カードキャンペーン
http://www.morizumiphoto.jpn.org/cardcampaign/cardcampaign.html

                 マーシャル諸島の子どもたち
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2008年12月05日

学校の送り迎え

カブールの街は毎日誘拐や殺人が起こっている。
子どもを学校に通わせる親にとっては、心配です。我が子を守るために、親が送り迎えを行っている。
当たり前の風景になっている(2008年10月30日 カブール市内)

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カブールのケバブ屋さん

カブール空港からホテルに直行した。
外国人の一人歩きが危険だと誰もが言っていたが、ホテルに缶詰は何もも出来ない。腹が減ったので食糧の買い出しに街に出た。
「どこから来た?」とケバブを焼いていたおにいちゃんから聞かれたので日本からだと、言うとケバブをおまけに一本余分にくれた。
危険だと言われるところでも市民は普通の生活をしていた。(2008年10月30日カブール)

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2008年12月03日

アフガン・パキスタン報告会


アフガンとパキスタンの取材報告をします。
「森住卓さん緊急講演会「今、アフガンは」」
日時:12月6日(土)午後2時から4時
会場:クリエート浜松21講座室
http://www.hcf.or.jp/facilities/create.html
主 催:カレーズの会西部支部


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森住 卓
Takashi Morizumi
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カイナール街道の日没

セミパラチンスクからカイナール村まで340キロ。
舗装路は穴だらけ。スピードが出せない。セミパラチンスクを出発が遅れ途中で陽が沈んでしまった。
カイナール村まで、あと2時間ぐらいかかりそうだ。

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2008年12月02日

セミパラチンスク 水爆実験で全滅した村 

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ジャカン・ビシェケイエフ・ガブガリウリさん

タイラン村は1953年の初めての水爆実験の時に住民の避難が遅れ、強烈な放射能で住民が全滅してしまったという事件が起こった村だ。
「セミパラチンスク 草原の民 核汚染の50年」(高文研)に書いたので興味ある方は是非、読んでいただきたい。
このタイラン村の出身者がカイナール村に住んでいることがわかった。ジャカン・ビシェケイエフ・ガブガリウリさん(1947年生まれ)だ。

この話しが持ち上がったのはアキンバイさんとセミパラチンスクからカイナール村に向かう途中、サルジャール村を通過した時のことだった。
10年前にタイラン村の事件を取材したと言ったらアキンバイさんも事件のことを知っていたのだ。
ソ連時代この事件は極秘にされ、村もブルトーザーで埋められ闇に葬られてしまったと聞いた。知っている人はごく限られた人だと思っていたので、アキンバイさんが知っているとは意外だった。
10年前に取材したときには当時の生存者を見つけることが出来なかった。
全滅したとしても、その親戚や家族の一人ぐらいいるだろうと思っていたから、アキンバイさんがこの事件を知っているのならきっと、当時のことを知っている人を探してほしいとお願いした。
アキンバイさんはすぐにカイナール村に住んでいるタイラン村出身者を探し出してくれた。
それがジャカンさんだった。お話を聞くと、1953年の水爆実験の時には既に、カイナール村に引っ越していて、タイラン村には親戚も家族も住んでいなかったので詳しいことはわからなかった。
ジャカンさんは水爆実験の時、6歳であまり記憶がない。大きくなってから、おばあさんとセミパラチンスクに行くときにタイラン村を見せてくれると連れて行ってくれたが、見つからなかった。

以下はジャカンさんの話しだ。
水爆実験の前に住民を避難させたが、村に残っていた住民もいた。避難が間にあわなかったらしい。そのために全滅してしまったらしい。
実験の当時は真実を話すことを住民は恐れていた。だから、タイラン村の出来事を聞きたいとも思わなかった。それより、ソ連時代はアメリカが攻めてきた時に、核兵器という大きな力を持つ必要があると政府に言われ、教えられていた。
実験はたくさん行われたので慣れてしまった。地上実験の時には最初、閃光が稲光の様に光りその後、天を揺るがすような大音響が聞こえ、空にキノコ雲が見えた。白から虹色に変化していった。地下実験の時には地震が起こり、家具や窓ガラスが壊れた。
それから家族にはガンやいろいろな病気が発生した。妻は1983年から甲状腺異常と糖尿病で苦しんでいる。53年生まれの弟もその息子も死んだ。
私は実験が始まる前に生まれたので元気だが、実験が始まってから生まれた人はみな病気で苦しんでいる。
きのう合った人が明日は亡くなる、と言うことがしょっちゅうある。いま元気な子どもたちが将来どうなるのか心配だ。

タイラン村のことはわからなかったが、被曝者はいまなお、自身と家族の健康の事を心配している。
広島長崎の被爆者も同じような心配を一生涯、持ち続けている。
セミパラチンスクの被曝者も一生 ヒバクシャとして苦しみを背負って生き続けなければならない。

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2008年11月19日

帰国しました。

一昨日11月17日夜、帰国しました。
パキスタンからアフガニスタン、そしてカザフスタンと渡り歩き取材をしていました。往復のチケットがあるので、カザフスタンのアルマータからイスラマバードに戻って帰ろうと思ったのですが、アルマータはチケットが高く、直接日本に帰ったほうが料金が安くなることが解りソウル経由で帰国しました。
パキスタンで引いた風邪をアフガン、カザフと持ち歩き、とうとう日本へおみやげに持ち帰りましたが、こんなおみやげ誰も歓迎しません。
昨日と今日、薬を飲んで寝ていたら良くなってきました。

取材したことを、少しずつUPしてゆきます。
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2008年11月14日

宴会

ようやく宴会が始まったのは到着して4時間後。腹一杯羊の肉をご馳走になった。
外は雪も止んで、雪明かりの中を村に帰ることにした。
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森住 卓
takashimorizumi
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べスパルマック

カザフ民族は客人のもてなし上手だ。
私が訪ねたので、男達が羊を殺し、解体し女達は羊を塩ゆでし、マカロニを茹で
てベスパルマックの準備が始まった。ビスパルマックとは5本の指の意味で、右
手の指全部を使って手づかみで食べる。まず、客人には羊の頭が出され、客が耳
を切り落とし、人の話を聞くようにと家族の配る。
脳みそ、目玉、全てたべる。

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森住 卓
takashimorizumi
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キーカシカン村 ドゥマンさんの家

ドゥマンさんの家の周りの家はなくなってしまっていた。村の人口は10年前の半
分になってしまった。

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森住 卓
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キーカシカン村

カイナール村から50キロほど核実験場の中に入った、キーカシカン村にアキンバイ先生の親戚を訪ねた。
牛100頭、羊200頭、馬10頭を飼っている遊牧民だ。
途中、遊牧中の親戚に見つけて、馬を貸して貰い羊を誘導するアキンバイさん。草原の中にいると、遊牧民の血が騒ぐのかも知れない。


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森住 卓
takashimorizumi
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カイナール村5 エコー診断

ヒロシマセミパラチンスクプロジェクトから送られたエコー診断機が活躍してい
る。
産科だけでなく内科にも使っている。
妊婦と胎児の状態がわかるようになり、早期に異常が発見でき、村で対応できな
い患者はセミパラチンスクに送って治療してもらっている。


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森住 卓
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カイナール村4 保育器

出産直後に入れる温度調節の出来る保育器が2台欲しいと言っていた。
ヒーターの着いた古いものしかない。


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森住 卓
takashimorizumi
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カイナール村3 診察

訪ねた日には産科の入院患者は一人しかいなかった。アリアさんの村の患者はみ
んな顔見知り。患者の家族の事を話しながらゆっくり診察をしていた。


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森住 卓
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カイナール村2病院

外科病棟の看護婦さんたち
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森住 卓
takashimorizumi
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カイナール村1 小児科の患者

風邪をこじらせて入院していた姉妹とお母さん。
医療費は国の負担で入院費用も食事付きで一切無料。
お金の心配が無く、安心して医者にかかれる。
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森住 卓
takashimorizumi
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2008年11月10日

不発弾の犠牲 カブールの救急救命センター

カブールでUP出来なかった写真を掲載します。


9月15日モハメドヌール(10)君はカブール南部のパクテルで2人の友達と不発弾を
拾って遊んでいた。
近くで戦車の砲弾が爆発した。大きな爆音で耳がガーンとなって聞こえなくなった。
気が付くと右足が吹き飛んでいた。左足の付け根も地が吹き出ていた。
村は米軍とタリバンの戦闘が続いて、救助が遅れた。


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森住 卓
takashimorizumi
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クラスター爆弾の犠牲者

10月16日10時30分頃、ミラッド君はパンシールの村で友達3人と山にピクニックに出かけた。
ナッツのような丸いものを拾った瞬間爆発した。クラスター爆弾の子爆弾の不発弾だった。
以前にもたくさん見たことがあったが、さわったことはなかった。不発弾だと教えてくれる人はいなかった。
さわったのは初めてで爆発するとは思わなかった。

右手は小指と薬指が垂れ下がっているだけで他の指は吹き飛んでいた。
自分で山を下りて、途中で知らない人が助けてくれた。右足もすねの肉がえぐり取られていた。
ミラッド君の夢は、大人になったら医者になって、たくさんの人を助けることだ。

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森住 卓
takashimorizumi
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2008年11月09日

セミパラチンスク子どもの家

ここには0歳から4歳までの親が育児放棄をしてしまった子ども達が収容されてい
る。
その中でも障害を持って生まれた子どもは、親が病院に置き去りに捨ててしまっ
た子どもたちがたくさんいる。現在同施設には14人が24時間のケアを受けている。
水痘症、口蓋裂、ヘルニア、脳性麻痺、ダウン症などの子どもが生活している。
「実験との関係は難しいが、多いことは確かだ」とディレクターのイブライモフ
さんは言った。


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アキンバイ夫妻


セミパラチンスク到着2日目の朝
ホテルにカイナール村のアキンバイ夫妻が訪ねてきた。偶然ウスチ・カメノグルスクに行く途中だった。
二人はカイナール病院の医院長と産科医をしている。
私と5年ぶりの再会。長女のディナーラは結婚してアスタナで銀行員をしていて、3歳の女の子がいる。アキンバイ夫妻はおじいちゃんとおばあちゃんになった。
長男のエルザットはセミパラチンスク医科大学からウスチカメノグルスクの大学に転校し警察官になるのだと言っていた。
エルザットが夫妻と一緒に来てくれた。

 私の来たことに何より喜んでいるのはアキンバイさんだ。アキンバイさんは核験被害の救済を村で行っている、数少ない医者だ。
ふるさとは1954年に核実験場拡張のために奪われてしまった。当時の巨大なソビエト権力の前に住民はなにも抵抗出来ず、セミパラチンスクなどに強制移住させられた。
来年は実験が始まって60年、核実験が終わって20年になる記念の年だ。来年はふるさとを取り返すために、住民と語り合っていると言った。

アリアさんは「タカシが始めてきた頃より、医療設備もよくなったし、薬もある。でも、被害はちっとも減らない。だから昔と何も変わらない」と悔しそうに言った。

「被害の実態を知らせてくれるジャーナリストが村に来れば、自分の出来る事は何でも協力したい。だから、セミパラチンスクの核被害の事をいつまでも忘れないで欲しい」とアキンバイさんは大きな声でしゃべりまくって、部屋を出ていった。

明日夜、カイナール村に連れて行ってもらうことになった。

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2008年11月08日

水汲み

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カブール市内のAISFの基地のある山の中腹で子どもたちが水を運んでいた。

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給水車が来たことを遅れて知った子どもたちが両手に大きなバケツやタンクを持って集まってきた。水を満タンにしたら自分のカラダより重いバケツをどうやって運ぶのだろうか?
でも、この日は給水車は来なかった。
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カブールの街

カブールの街を見下ろすAISFの基地のある山の中腹は市民の住宅が山の斜面にびっ
しり張り付いている。6年前に来たときには砲撃で至る処が蜂の巣のように穴だ
らけたった。今は銃痕の穴を見つけることは出来ない。

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森住 卓
takashimorizumi
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2008年11月03日

カブール市内の治安

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10月30日に自爆攻撃を受けた文化情報省。外観はたいした損傷はないが内部の破壊はひどいようだ。ビルの前の通りは封鎖され車が入れない湯になっていた。警備の警察官が撮影を許可してくれなかった。


噂に聞いてきたカブールの治安は「街の中を外国人は一人歩きできない」ほどひどい、と言うものだった。しかし、市民は普通の生活を送っているし、バザールも賑やかに開かれている。何も起こらなければそれが安全だと言うこと。もし事件が起これば危険だと言うことで、人によって感じ方受け止め方は全く違う。

私はシャルワールカミースを着ているのでハザラ人と間違えられるくらい。町中で危険を感じたことはない。彼等と同じ服装で風貌も同じだから。
問題は撮影するときはバッグからカメラを出さなければならず目立ってしまう。だから短期決戦で内容はともかく撮影したらさっと引き揚げる。これしかない。

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2008年11月02日

アフガニスタン・カブールレポート1

一昨日、空路イスラマバードからカブールに着きました。
カブールは比較的落ち着いています。と言うより、力でねじ伏せていると言う感じです。
街には至る処に武装警官や私設警備員が銃を構え、主要な建物は要塞のように、防弾壁の後ろから銃口が狙っています。

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パキスタンから帰還した人たちの難民キャンプに行ってきました。
カブール市内に3ヶ所あります(確認できた数)。規模や民族ごとに別れていました。
カブール市西部のキャンプは60家族が住んでいる。(テントの数を数えると実際は3倍以上ありそうだ。難民登録など無いので実数はつかめない)
8ヶ月から1年前にパキスタンのペシャワール近郊の難民キャンプから、国境を越えるときに一家族100ドルをUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)から支度金を貰いましたが、とっくに使い果たしていました。カブールで働き口を見つけようとしても、カブールは失業者ばかりで彼等に働き口は殆どありません。たまに建設現場の作業員の口がありますが、彼等にはいつ、何処で募集しているのかさえ情報が入りません。
これから冬を迎え彼等はどう乗り越えてゆくのでしょうか?

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グラム・ファルグ(60)さんは妻(31)と3歳の子どもがいる。
1年前にパキスタンから戻ってきた。このキャンプに来て、2人の子どもを失った。お金がないので病院にも連れて行ってあげられなかった。子どもがナンの病気で死んだのか知らない。

一族のリーダーラザノハマッド(30)さんは「パキスタンには働くところもない、だから戻ってきたのに、アフガンはもっと酷い。水もない、食糧も。これから冬になって燃料をどうするか?国連も助けてくれないし、政府も何もしてくれない。この冬をどう乗り切ったらよいのか」と頭を抱えていた。
「アメリカ軍やAISFよりも、国連に統治して貰いたい。一番欲しいのは平和だ」と言った。



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2008年10月21日

カチャガリー難民キャンプ2

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キャンプの入り口で棺桶を売っていた。

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難民キャンプの管理事務所前に登録に集まった難民

ペシャワールの郊外、アフガンとの国境まで30キロの地点にある。ここは1年前までアフガン難民キャンプとして有名だった。パキスタン政府はアフガン難民を帰還させたために閉鎖されていたが、9月から国内難民のために再開した。
ここには10月20日現在6000人の難民が暮らしている。殆どがトライバルエリアのバジョールエージェンシーから来た住民だ。
他にも難民キャンプは3カ所開設されている。国連難民高等弁務官事務所の発表では100万人が国内難民となっているという。
カチャガリー難民キャンプは毎日難民が増え続けているという。
これから冬に備えて毛布や暖かい衣類、テントなどの用意が必要だと担当者はいっていた。
posted by M at 19:41| レポート

カチャガリー難民キャンプ1

ペシャワールに滞在中にこの記事をUPしまたが、その直後にペシャワールで取材していることが当局や他の勢力に知られると危険になると判断し、掲載直後に非公開にしました。読者の皆さんには、非公開になった原因も説明出来ず申し訳ありませんでした。
現在はカブーニルにいますので晴れて公開します。


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「怒りをどう表したらよいのか??」沈んだ表情になってしまったモハマッド ジャンさんは失った右腕の付け根をさすっていた。
モハマッドさんはトライバルエリアの7つのエージェンシーの一つ、バンジョールのシャイカ村に住んでいた。
8月6日夜、ロケット砲が自宅を直撃。モハマッドさんは右腕を負傷。息子は肩を負傷、妻は頭を負傷、モハメッドさんはすぐにペシャワールの病院に運ばれ緊急手術を受け20日間入院し、8月28日に家に帰った。2日後の30日にパキスタン軍とタリバンとの戦闘が激化し村を捨てペシャワールの親戚の家に身を寄せた。
その後、難民キャンプが開かれたので20日前に来た。
「ここには何もない。支給されるのは米だけ。小麦粉、肉、野菜はない。これから寒くなるのに防寒着もないし、暖かい毛布もない。どうしたらよいのか」と途方に暮れていた。
posted by M at 19:30| レポート

2008年10月18日

イスラマバードに着きました。

東京から9時間の空の旅でイスラマバードに着きました。
ホテルまでの道は何カ所かチェックポイントがありました。
暗くて外の様子は見えませんでしたが、首都も厳戒態勢なのでしょうか。

イスラマバード行きのお知らせをメールで送ったら、たくさんの方から「気をつけて」と返事が来ました。ご心配おかけしますが、安全には万全の注意を払い、五感をとぎすまし、対応していきます。
メールいただいた方、全てに返事を書けませんので、ブログでお礼の気持ちお伝えします。ありがとうございました。
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2008年10月16日

写真証言「沖縄戦『集団自決』を生きる」

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沖縄の座間味島と渡嘉敷島で取材した沖縄戦「集団自決」が本になります。
やっと、きょう原稿を入れ終わりました。
発売は12月初旬ころです。
たくさんの方のお話を聞かせていただき、本当に辛い体験を話していただいた証言者の皆さんに感謝しています。

また発売予定日が決まりましたらお知らせします。

写真は渡嘉敷島阿波連のビーチでおみやげ屋さんをやっている内原静子さん。
「お兄さん私の頭を触ってごらん」と麦わら帽子を取って私の目の前に頭を突き出した。静子さんの頭はぼこぼこにへこんでいた。63年前の「集団自決」の時に舅から殴られた後だった・・・・。
こうしていま生きているのは「あの時の体験を伝えなさいよ」と亡くなった人たちから言われている、と言って頬を伝う涙をタオルでぬぐった。
posted by M at 21:50| レポート

JVJA写真展&映像展2008

お待たせしました。
久しぶりにブログの更新します。
私も参加している
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)が写真と映像展を開きます。
今回は私は参加しませんが、内容豊富です。
都内近郊、遠い方もぜひスケジュールをチェックして行ってください。

写真展&映像展2008 生命の現場から:序章 http://www.jvja.net/2008PhotoJVJA.htm

[期間] 2008年10月21日(火)〜 26日(日)
[時間] 11:00〜20:00 期間中無休 ※ 26日(最終日)は15:00まで
[場所] キッドアイラック・アートホール
    (京王線・京王井の頭線 「明大前」駅下車徒歩2分) 
    東京都世田谷区松原2-43-8 電話03-3322-5564
    http://www.kidailack.co.jp

[入場料]無料 ※期間中のトークショーは入場料が必要です。

写真、映像展出品者(JVJA会員)

海南友子 國森康弘 権徹 野田雅也 山本宗補 古居みずえ
桃井和馬 豊田直巳

主催:日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)
http://www.jvja.net/



【期間中特別トーク開催】10月21日(火)〜26日(日)

予約制/トーク時は入場料1000円(予約先着順・定員 40名)
予約受付:キッドアイラック・アートホール
TEL 03-3322-5564  E-mail arthall@kidailack.co.jp

※予約で定員に達した場合は受付を終了します。あらかじめご了承ください。

▼10月21日(火)18:30〜
「ビューティフルアイランド
〜気候変動に揺れる 美しい島の人々〜」海南友子 

 南太平洋、北米、ヨーロッパ。気候変動や温暖化によって新
たな選択を迫られている、世界の3つの小さな島。
もし、気候変動の影響が本格化したとき、消えてしまうかもし
れない美しい島の、人々の暮らしの美しさを見つめます。
来年完成予定のドキュメンタリー映画「ビューティフルアイラ
ンド」(監督・海南友子)の映像を一部上映予定。


▼22日(水) 18:30〜
 「新宿・歌舞伎町」 権徹(ゴン・チョル:韓国出身)

 日本有数の歓楽街、新宿・歌舞伎町。現代日本を象徴するこ
の町を96年から撮り続けてきた。
 そこで外国人ジャーナリストが目撃した様々な事件、交錯す
る人間模様。
 歌舞伎町から日本の未来像が浮かびあがる。

▼23日(木) 18:30〜
 「いま話したいこと、いま考えたいこと」 綿井健陽 
  トークゲスト:森達也(ドキュメンタリー作家/映画監督)

 死刑・光市母子殺害事件・秋葉原殺傷事件・映画「靖国」騒動・北京五輪…。
 今年起きた様々なことを“ドキュメンタリートーク”で振り返る。

▼24日(金)18:30〜
 『乱世に強く!"戦地"の子どもたち』 國森康弘 

  イラク、ソマリア、スーダンなどの紛争地や、カンボジア、
ブルキナファソ、ケニアなどの経済貧困地域に生きる子ども
たちをスライドで紹介する。
 「命の危険」という目の前の困難な状況に押しつぶされるこ
となく、しなやかさを保ち、笑顔まで見せる。
  行く先々で出会ったそんな子どもたちの強さに迫り、学ぶ。

▼25日(土)14:00〜 
 ドキュメンタリー映画「ビューティフルアイランド」
(監督・海南友子)の映像を一部上映。(※上映のみ。入場無料)
    
▼25日(土)18:00〜
 「隠されたチベット」 野田雅也

 今年3月、チベット全土に飛び火した抗議デモは、真実とは
何か、自由とは何かを世界に問いかけた。
 しかし北京オリンピックが盛大に開催されると、軍事封鎖さ
れたチベットの現状は恣意的に消し去られた。
 だが今も不安と不満のなかで良心の声をあげる僧侶たちがいる。
 心に小さな火を灯し、願い、そして祈り続けるチベットの人
びとの姿を伝えます。
 
▼26日(日)15:00〜
 JVJAトーク 「生命を語る」 写真展出品者(JVJA正会員)
國森康弘 権徹 野田雅也 山本宗補 古居みずえ 桃井和馬 豊田直巳 

 JVJA会員が国内外の取材体験から、私たちを取り巻く「生命」の今について、主に今回の展示写真作品と、その写真作品の背景を縦横に語り合い、論じ合います(当日のトーク出演者は事情により変更になる可能性があります。あらかじめご了承ください)。

▼26日(日)18:00〜 
開催記念パーティー(参加費別途1000円)

 JVJA会員とそれを支えてくださるスタッフの皆さん、そして写
真展、トークショーなどに参加された皆さんとの懇親の場です。
会員の出版した写真集、著書へのサイン会も兼ねます。お飲み物と軽いおつまみをご用意してお待ちしておりますので、お気軽にご参加ください。

【お問い合わせ】
JVJA事務局 
〒101-0063 千代田区神田淡路町1-21.静和ビル2B
TEL 090-6101-6113 FAX 03-3252-7651
E-mail office@jvja.net

又は
キッドアイラック・アートホール
TEL 03-3322-5564 / FAX. 03-3322-5676
E-mail arthall@kidailack.co.jp


posted by M at 21:22| レポート

2008年09月23日

写真展「戦禍の中の子どもたち」

balkan0001.JPG写真展「戦禍の中の子どもたち」の貸し出しを始めました。

今までWeb Galleryのフラッシュ映像で公開していた旧ユーゴスラビアとアフガニスタンの写真を、写真展用にパネルにしました。
イラク戦争の写真と合わせれば、冷戦終了後の戦争を示す展示としてご利用いただけます。
展示写真の内容はこちらをご覧ください。
http://www.morizumi-pj.com/shashinten/senkano.html
posted by M at 17:03| レポート

2008年08月06日

63年目の8月6日広島

朝5時 平和公園

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posted by M at 09:24| レポート

2008年07月29日

辺野古の座り込みテントで開かれた「海の幸をいただく会」

7月26日、辺野古の海に感謝して「海の幸をいただく会」が開かれた。
食い意地の張った私は他の予定をキャンセルして参加した。
海民ちゅーが届けてくれた、イラブチャー、ブダイやマグロの刺身、タコなど大
きな皿一杯に盛られて皆でいただいた。5月に辺野古の海で取れた太くて歯ごた
えのあるモズクも大好評。オバー達が作ってくれたぜんざいはすぐなくなってし
まった。
座り込みのテントにはたくさんの人が駆けつけ、新鮮な海の幸を味わった。

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海ンちゅーから届けられたマグロ。

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魚のアラと野菜の鍋。

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地元のオジイ、オバアも来てみんなでおいしくいただいた。
「タラジーサビタン」(ごちそうさま)本来海んちゅーから魚を貰ったときなど、次はもっと獲ってきてね、という意味。

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海んちゅーの山城さんの背中。


posted by M at 11:10| レポート

2008年07月26日

ヤンバルに新しい宿

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ヘリパット建設反対で揺れる東村高江で喫茶店「山瓶」のゲンさんが今度はヤンバルの最奥部、国頭村楚洲に地中海風の宿をオープンさせた。
閉鎖されたパーラーをゲンさん一人で改修し、壁と床と天井を漆喰で塗り清潔で気持ちの良い宿が出来た。
見下ろす紺碧の海は太平洋。ずっと見ているとジュゴンに会えるかも知れない。
日が暮れると満天に星々が輝き、リズミカルな波音だけがBGMとなて眠気を誘う。
「何もないところが良い」とゲンさんはいうが、豊かな自然が起こされている。

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ゲンさんの家族

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窓から見えた星空

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窓から見えた日の出

posted by M at 22:59| レポート

ヘリパット反対の高江(沖縄県国頭郡東村)にShing02が来た。

Shing02って何? だれ?って、このブログを見ている人は思われる方も多いでしょう。実は私も3年前まで知りませんでした。
Shing02はサンフランシスコをベースに活躍するミュージシャンのラッパーです。
私とShing02との出会いは2005年5月、バークレーでの講演を聞きに来てくれたのです。私のパソコンの調子が悪く、そのとき直してくれたのが、何とShing0さんだったのです。その時には彼のことをよく知らずに、帰国後息子に「Shing02って知ってるか?」と聞くと「すごいラッパーだ」と素っ気なく言われてしまいました。そんなにすごい人かと、無礼をしてしまったことに気づいた次第。
その後、私も協力した坂本龍一さんがWEBで始めたSTOP ROKKASHOキャンペーンにShing0さんのBGMが使われていて、私の核被害のスライドショーの部分でも使わせて貰っています。Shing0さんありがとう。
前置きが長くなったのですが、高江のコンサートの写真をご覧下さい。
歌ってくれた曲はLuv(sic)、Love You Like Water、抱擁(ほうよう)殴雨(なぐさめ)湾曲(わんきょく)焦燥(しょうそう)旋毛風(つむじかぜ)Luv(sic) Part2などでした。

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栞(しおり)を歌っているとき虫が飛んできてShing0さんの指にとまった。ヤンバルの自然の豊かさを感じた。

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posted by M at 08:35| レポート

2008年07月18日

都心のど真ん中を猛毒プルトニウムが通過

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昨夜7月17日午後7時40分過ぎ首都高3号線渋谷駅付近を3台のトラックが通過した。ブルーシートをかぶせ車体に放射能のマークをつけたトラックは夕刻のラッシュ時、一般車に紛れて、こっそりと走り抜けた。
ブルーシートの中に隠されたものはなんと猛毒のプルトニウム。

輸送ルートは茨城県東海村 日本原子力研究開発機構―常磐道―首都高速―東名高速道路―名神高速道路― 福井県「もんじゅ」。今回で最後の輸送となった。今後は青森県六ヶ所村からの輸送となる。

プルトニウム輸送の日時通過ルートなどは秘密にされ、沿線自治体や消防署にも知らされていない。事故が起こっても緊急の対応が遅れる。

人口1千2百万の首都のど真ん中を通過していたとはほとんどの都民も知らない。先導のパトカーも赤色灯を消し、追い抜いてゆく一般車両もブルーシートをかぶった中身がプルトニウムだということは知らない。

世界でプルトニウムが首都のど真ん中を通過するなどということがまかり通る国を他に知らない。

(写真)7月17日19時40分 渋谷の首都高3号線 左側車線を走っている2台のトラックがプルトニウムを積んでいる。

posted by M at 14:54| レポート

2008年06月13日

四川大地震 避難所生活(安県黄土鎮)

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子どもたちのためにテントの図書館開設され、避難してきた子どもたちが学校の勉強を教えあっていた。(安県黄土鎮 5月26日)

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安県黄土鎮の避難所には北川の村から避難してきた住民がたくさんいた。家族と親戚で食事をする避難民

posted by M at 12:09| レポート

2008年06月10日

四川大地震 綿陽市九洲体育館避難所2

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北川の村から避難してきた子どもたち。
支給された弁当とカップ麺を食べていた。


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長期の避難生活で避難民の健康が心配される。
針やマッサージなどの治療が行われていた。
posted by M at 23:40| レポート

2008年06月09日

四川大地震 綿陽市九洲体育館避難所

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ごった返す避難所はプライバシーもなく被災者は次第に疲れが蓄積している。まわりの喧噪をよそにぐっすり眠っている4才の男の子。

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九洲体育館は四川大地震で最大の避難所になった。最も多いときで2万人をこえた。北川県からの避難民が多い。
山の中の村は土砂に埋まってしまった家も多く、この避難してきた人々は帰るところもない人もいる。(2008年5月26日)
posted by M at 11:46| レポート

2008年06月07日

四川大地震 山から逃げてきた人々 北川

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山が崩落し生活できなくなった住民は山を下りてきた。
その後、ダム決壊の恐れからこの村の住民は全員避難させられた。

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数時間歩いて山から下りてきた人々。村にたどり着いたときには夕暮れが迫っていた。
posted by M at 10:40| レポート

2008年06月05日

四川大地震 甘粛省武都県

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トウモロコシを引いて粉にする。


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2006年に起こった地震で倒壊した後に政府が作ってくれた家が再び倒壊した。その時のプレートが残った壁に貼られていた。



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昼食の後片付けをする家族



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村の診療所は地震で倒壊してしまった。
急遽ビニールシートを貼って応急の診療所が出来ていた。中には少しの薬と聴診器、注射器しかなかった。
posted by M at 20:56| レポート

7/8四川省大地震被災者支援コンサート

7月18日(金)18時15分開場
 豊島公会堂(JR池袋駅東口下車徒歩約5分)
具体的なことは
以下のpdfファイルを開いて見てください。

xRT[g(1).pdf
posted by M at 18:26| レポート

2008年06月04日

甘粛省文県梨坪

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崩れた壁の下敷きになって足を大けがした老人。町の病院で治療を受け山に戻ってきた。寝たきりになってしまった。

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隴南市から来た役人が村を案内してくれた。その数14.5人いた。私の行動をずっと追いかけて撮影している男がいた????。
posted by M at 12:40| レポート

2008年06月03日

甘粛省文県梨坪

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地震発生時、妻は家の中で昼食の後片付けをしていた。子どもたちと夫の劉さん(38)は外にいたので無事だった。妻は崩れて家の下敷きになった。村中の人が来て4時間後に掘り出したがすでになくなっていた。これからどうしていったらよいのか?と娘と一緒になき崩れてしまった。(2008年5月24日 寺林山村)

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急峻な山岳地帯は小さな余震でも崖崩れが発生する。
posted by M at 18:36| レポート

6月20日講演会やります

沖縄・ヤンバルの森から、
「集団自決(強制集団死)」の現場へ


新基地建設に揺れる沖縄北部・辺野古に海、ヤンバルの森(東村・高江)など「沖縄の今」と、沖縄戦の“極限の惨劇”「集団自決(強制集団死)」の実相をスライドショーで伝えます。

6月20日(金)6時半から
明治大学リバティータワー地下1001教室
http://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/suruga/access.html
JR御茶ノ水駅から徒歩3分、地下鉄丸ノ内線御茶ノ水駅から徒歩5分
千代田線新御茶ノ水駅から徒歩7分 半蔵門線/都営新宿線/都営三田線神保町駅から徒歩5分

資料代500円

主催:大江・岩波沖縄裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会

連絡先:〒101-0051 千代田区神保町3-2 サンライトビル7F 千代田区労協気付 TEL:03-3264-2905
posted by M at 18:24| レポート

2008年06月02日

甘粛省文県梨坪

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埃にまみれて遊んでいた兄妹。(5月24日)
posted by M at 10:23| レポート

2008年05月30日

甘粛省文県の村々

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壊れた農家に入ると壁に毛沢東の肖像画とお釈迦様の絵が張ってあった。神仏混合??


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はにかんでいた人たちも親しくなると写真を撮ってもらいに集まってきた。
posted by M at 00:35| レポート

2008年05月29日

刈り残された小麦

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谷間のわずかな平地はどこも耕されていた。小麦畑に束ねられたままの小麦の束が横たわっていた。収穫作業中に地震が襲い、あわてて逃げたのだろう。小麦畑の半分は刈り取られていなかった(5月24日甘粛省南部・文県)
posted by M at 00:43| レポート

2008年05月27日

地震取材から帰国しました。

昨夜(5/27)帰国しました。
ご心配おかけしました。

メディアの地震報道は下火になり、すぐに忘れられてしまうでしょう。しかし、被災者の苦悩はこれから始まるのです。そのことを忘れずに今後も取材した人々のことを思い、仕事を続けて行こうと思っています。

私が合った人々はだれもがとても親切でした。
息子を失い、家も失い悲しみのどん底にいた夫婦が夕食を食べてゆけと言ってくれた、あの心の温かさをずっと忘れる事はできません。

中国の本格取材は初めてでした。行く前に持っていた中国への印象が大きく変わりました。人権問題や少数民族問題など確かにたくさんの問題を抱えています。

一方、なにか得体の知れないものすごいエネルギーを感じました。きっと中国の人々はそれらの問題を乗り越えてゆくのではないでしょうか。その為にはもっと時間が必要かも知れません。

暫時、写真をアップしてゆきます。

写真は甘粛省南部・文県の山奥の小学校の教室。
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posted by M at 23:01| レポート

笑顔を取り戻したワンちゃん(4才)

成都から北東に100キロにある綿陽安県黄土鎮にある難民センターには北川周辺
の村から避難してきた人々が収容されている。
4才の女の子と出会った。名前は王(ワン)ちゃん4才だ。彼女は北川の擂鼓鎮か
ら避難してきた。彼女は地震後、笑顔を失い、唾をところかまわず吐くようになっ
た。今も余震に怯え、村人のたくさんの死体を目撃した。難民キャンプに来たときには彼女の笑顔は消えていた。
地震の精神的ショックは4才の女の子の心に大きな傷を残したのだ。今、同キャ
ンプでは精神科医が彼女の心のケアをしている。
3日前からようやく彼女に笑顔が戻り始めた。写真;お母さんと一緒にポーズを
とってくれたワンちゃん。(5月26日)ここは多くのボランティアが働き、食料、
テント、医療、衛生、教育など大量の支援物資の支給とボランティアの支援など
行き届いている。ここと比べ、一昨日行った甘粛省は支援の遅れが歴然としてい
る。
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posted by M at 01:31| レポート

2008年05月25日

四川大地震 甘粛省南部の村 寺山村

人口200人から数百人の村が急峻な山にへばりつくように点在し、山の上まで耕され、サンショウやクルミ、トウモロコシ、ジャガイモなどが植え付けられている。この地域は漢民族とチベット系のチャン族が混在している地域だ。
政治的には非常に微妙な地域で、中国側の役人が絶えず着いてきた。

地震が起こった5月12日午後2時過ぎには農民の殆どが畑仕事をしていたため、犠牲者は幸いなことに少なかった。泥壁と木で出来ている家屋は完全に崩れ落ちることも少なく犠牲が少なくすんだ理由のようだ。
寺林村は人口646人、158世帯だ。死者2名。1人が地割れに落ちて死亡。もう一人は倒壊家屋の下敷きで死亡した。負傷者2人、倒壊家屋68軒、倒壊の危険のある家屋が80軒だ。

農民達は潰れた家の下から木材を掘り出し、瓦を片付け再建を始めている。しかし、男出のない家はその力もない。
ここでも、雨が降っても雨漏りしないテントが欲しいと言っていた。
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posted by M at 00:16| レポート

2008年05月23日

四川大地震 甘粛甘粛省南部 少数民族の地域・伝えられていない被害

昨日夜、四川省成都から飛行機で西安に飛び、さらに早朝甘粛省の州都・蘭州へ。さらに車で500キロ走ってロンランスーに着きました。甘粛省南部医の被害の取材に行くためです。
成都から蘭州行きの飛行機は満席でやっと西安行きチケットが取れたのです。仕方ないので、西安経由で蘭州に入りました。(大きな余震がくると報道され成都のお金持ちは飛行機で一時避難をするためにどの便も満席になってしまったのです)今朝、蘭州空港から車で500キロ南下し、ようやく隴南市(ロンランスー)に着きました(東経105°北緯33°30′)。
いまだ、甘粛省全体で100万人が屋外で暮らしています。余震を恐れて外で過ごさざるをえないのです。ロンランスーは峡谷の町で人口10万。町の中央を流れる川の両側に避難民が掘っ立てのビニールシートをかぶせたテントで暮らしています。彼等はテント、トイレが至急欲しいと言っていました。周辺は少数民族が暮らすとても貧しい地域です。
メディアは震源地の被害の激しい四川省の地域だけに注目しています。震源地の周辺は工業都市が集中しお金のある地域で、いち早く支援を得ることが出来ました。しかし、ここは貧しい少数民族の地域で支援の手も届いていません。貧しい人々はこの地震でも、見捨てられています。メディアは本来であれば、こうした見捨てられた地域の実情をこそ伝えるべきです。
明日は四川省との州境の村(最奥部)に入ります。
写真:テントで誕生日を迎えたヤンちゃん(5才)避難した住民からお祝いのケーキが贈られた。(5月23日隴南市)
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posted by M at 23:50| レポート

2008年05月20日

3日間の喪

5月19日、地震発生から1週間が過ぎた。
午後2時20分一斉にサイレンが鳴り出した。町のあちこちには半旗が掲げられていた。
中国中央テレビ(CCTV)は全国が地震発生1週間目のこの時間に中国全土が3日間の喪に伏したことを伝えていた。
国民が犠牲者の冥福を祈るのはいいが、救出現場から作業を中断してセレモニーが行われている様子が映し出された。おそらくこの間20分以上作業が中断されたことになる。そんな時間を救出に当てれば、助かる命があったのかも知れないのに。しかし、既に1週間過ぎて、生存者はいないと言うことなのか。犠牲者の家族の気持ちを思うといたたまれない。(写真:成都市庁舎前広場に集まった市民が犠牲者の冥福を祈ってキャンドルをたいた)
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posted by M at 08:48| レポート

2008年05月19日

地震速報2 山が崩落 通済鎮思文村

震源に近いこの村はいたるところで山が崩落していた。
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posted by M at 12:49| レポート

地震速報2 支援物資を受け取る住民 通済鎮思文村

ボランティアによって近くの町から暖かい料理が運び込まれた。
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posted by M at 12:46| レポート

地震速報2 成都から北に100キロの通済鎮思文村 

村はほとんどの家が崩壊した。死者20人。
住民は食糧、水、テントがない。

また、谷間の集落2つが崖崩れで埋まり、全員死亡。死者数不明。

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posted by M at 12:44| レポート

2008年05月18日

中国四川省ブンセン大地震速報

昨日(5月16日夜)四川省の省都・成都につきました。
成都は地震があったのかと思うくらい平和で静かでした。歩道にビニールテントを張って夜を過ごしている人もいました。未だ余震が激しいのです。

今朝から成都から西北に都江堰に行ってきました。ここは世界遺産に指定された歴史的文化財がたくさんある町だ。人口は6万人。震源地から50キロ離れたところだ。
成都に近づくと道の両側に簡易テントが見え始め街の中心部に近づく毎にその数が増えていった。
中心部のビルが倒壊しまるで爆撃の後のようです。既に生存時間の限界と言われる72時間はとっくに過ぎ、救出から遺体の捜索に変わっていました。軍や警察ボランティアの人々ががれきの山と格闘していました。疲れきった表情で未だがれきの下にいる遺族が作業を見守っていました。

近くで遺体が発見され、がれきの山から運び出されました。土色になった老婆の顔は何かの下敷きになったようにゆがんだまま口から血が流れていました。
駆け寄った遺族は泣き崩れました。犠牲者の冥福を祈って鳴らされた爆竹が、悲しみの頂点に達した子どもたちの鳴き声をかき消してしまいました。

さらに、近くの崩壊したアパートからは2才の女の子の遺体が運び出されました。
遺体に近づこうとする母親は狂ったように泣き叫んでいました。兵士や家族が抱きかかられ支えられてやっとバランスを取っていました。

一区画離れた都江堰市民病院は建物の倒壊を恐れて、病院前の広場に応急テントの救急医療体制が取られていました。すでに地震発生以来運び込まれたけが人は4千人以上で数え切れないのだと病院関係者は言っていました。病院にいた1時間ほどの間に4人のけが人が運び込まれてきました。一昨日大きな余震で救出作業
中に生き埋めになった人が救出されて運び込まれました。

未だ何人が犠牲になっているのか判りません。

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避難先から自宅に戻り布団や家具を運び出してきた住民。(2008.05.17 都江堰)

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地震の後も動き続けている時計(2008.05.17 都江堰)

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病院に運び込まれたけが人。15日に起こった余震で生き埋めになって3日ぶりの
生還だった。

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世界遺産になってる都江堰の歴史的建築物のある公園は救急病院になっていた。

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運び出される遺体。

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運び出された遺体の検死をまつ遺族。

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2才の女の子の遺体。

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爆竹が死者の冥福を祈って鳴り終わると、あたりを悲しみが包んだ。

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救出された負傷者。

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2才の娘を失った母親。(Wm1z0144:シーツがかぶせてある遺体がこの母親の子)
posted by M at 00:55| レポート

2008年05月15日

中国・四川大地震の取材に出かけます

明日から中国四川大地震の取材に出かけます。
地震発生からすでに4日が過ぎました。時間と共に増え続ける犠牲者の数。未だ被害の全容が明らかになっていません。
一刻も早く現場から、被災者の姿。救援の様子などをお伝えします。


posted by M at 09:55| レポート

2008年05月10日

写真展「ハンセン病を撮る」

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JVJAのメンバーの八重樫信之さん、寺島満里子さん、梢根在さん、太田順一さん、船元康子さんの5人の写真家が撮ったハンセン病患者の写真展が国立ハンセン病資料館(東京都東村山市・042-396-2909)同時開催で写真展「絆」が東村山市役所活き活きプラザ(042-393-5111)で開催中だ。

言われなき理由から隔離され人間性を否定された患者たちの苦悩と国の非情な仕打ち、非人間性を告発すると同時に、人間らしく生きようとする患者たちの姿に心を打たれた。
人間の尊厳を問う写真展だ。
posted by M at 23:51| レポート

2008年05月05日

憲法特集4

沖縄・伊江島の阿波根昌鴻さん

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亡くなられて6年が過ぎた。
阿波根さんは道理と非暴力で米軍の銃剣に立ち向かい米軍の土地取り上げに抵抗した。
米軍占領下、基本的人権が保障されていなかった復帰前、米軍の蛮行を告発するために、証拠写真を撮って世論に訴えた。
その写真集「人間の住む島」は当時の人々の暮らしと闘いを映し出し、写真の力をいかんなんく発揮している。

私が撮影させてもらったのは阿波根さんが90歳の時だった。鼻緒の切れたゴム草履を「修理すれば使えるものは最後まで使ってあげなければかわいそう」と言っておられた。畑仕事にはぼろぼろの麦わら帽子がよく似合っていた。質素で無欲だった。
posted by M at 09:04| レポート

2008年05月04日

憲法特集3

三宅島は伊豆七島のほぼ中央にある火山の島だ。
二〇〇〇年の噴火では全島避難が行われ、現在も帰島できない人がたくさんいる。
この島に一九八三年末からNLP(米空母艦載機夜間離発着訓練)基地計画が持ち上がり、島ぐるみの反対運動が起こった。その時、島民のよりどころになったのは憲法九条だった。

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1988年新年、自宅に憲法を掲げた井上さん一家。
posted by M at 10:04| レポート

2008年05月02日

憲法特集2

「平和に生きる権利」を掲げて北海道・矢臼別演習場のど真ん中で暮らす川瀬氾二さん

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北海道東部の根釧原野。ここは夏でもオホーツクからの湿った冷たい風が霧となり押し寄せる。そんな霧を海霧と呼ぶ。夏もストーブが欠かせない。
ここに川瀬さんがやってきたのは今から五十数年前だ。人力で原生林を開墾した。巨木を倒し切り開いた土地で、ようやく農業と酪農を始めた。しかし、国は自衛隊の演習場を作るからと立ち退きを強要した。
いま、日本最大の演習場となり、沖縄から移転してきた米海兵隊の実弾砲撃演習が行われるようになった。日米一体の共同使用が進んでいる。
川瀬さんは「かっての明治憲法の下で、国の都合で戦争を始め、国民総動員法によって国民個人個人の運命が左右されることがあったが、そのようになることを私は拒否します」(衆議院憲法調査会公聴会のための準備原稿 http://www10.ocn.ne.jp/~dhi/sekai/sekaipage.htm)といっておられる。
川瀬牧場のD型ハウスの屋根には憲法前文と「自衛隊は憲法違反」と大書されている。
今、川瀬さんは温泉を掘る計画を進めている。「平和の郷」で温泉に入ってゆっくり平和のことを考えようと。
posted by M at 01:38| レポート

2008年05月01日

憲法記念日特集1

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「自衛隊は憲法違反」の大看板

この看板が立っているところは航空自衛隊百里基地。
茨城県小美玉市(旧小川町百里)にある。
「くの字」に曲がった滑走路があることで知られている。
正確には誘導路だが。Google Earthで上空から見ると確かにくの字に曲がっている。「くの字」の内側が平和公園だ。

なぜ「くの字」に曲がったのでしょか?
戦前、百里基地は海軍航空隊の基地があった。もっと昔は「百里が原は馬でも迷う」と言われたほど荒れ地で、開拓農民が食糧増産のために入植し、荒れ地を開墾してようやくイモやそばが育つまでになった。ところが「ここは海軍飛行場を作るから」と、有無を言わさず接収され、農民達は「お国のため」だと、丹誠込めて畑にした所をローラーで固め、飛行場にされてしまった。

太平洋戦争が終わって「平和な時代になった。さあ、食糧増産だ」と国のかけ声で再び、滑走路は畑に変えられ、作物を育て始めた矢先、朝鮮戦争が起き、再軍備で自衛隊が出来、再び航空自衛隊の基地を作るからと国が言ってきた。
しかし、百里の農民達は「もう、戦争のために犠牲になるのはイヤだ。これからは平和に生きたい」と国の計画を拒否した。
長い闘いの後、国のカネにものを言わせ、懐柔工作に負けた農民達は次々に農地を離れていった。戦い続けた農民達は国を相手に「自衛隊は違憲だ」と訴えて裁判を起こし1989年最高裁は「違憲」を退けた判決を下した。
最後まで抵抗を続けた農民達は基地のど真ん中の土地を国に売らずに守り続け平和公園とした。

基地の真ん中へくさびを打ち込んだように農民達の土地がある。そのため誘導路は「くの字」に迂回しなければならなかったのである。農民たちの平和の思いを象徴しているような風景だ。
その後、全国の平和を愛する人々に一坪地主になってくれるように呼びかけ、共有登記された。国のどんな札束攻勢にも屈せず一人でも売らなければこの土地は永久に国は基地として使えない。この土地に平和公園がつくられた。
平和公園から滑走路を挟んで基地の外側に小高い丘が見える。旧日本軍の射爆場として使われていた所だ。その中腹に「自衛隊は憲法違反」という大看板が建てられていた。(いまは竹が生い茂り隠れてしまった)
自衛隊パイロットは離発着のたびに「自衛隊は憲法違反」の大看板を拝まなければならない。

4月16日名古屋地裁は自衛隊のイラク派兵を「違憲」だと判決をくだした。憲法9条を変えようとする動きが強まっているなかでこの判決は画期的判決だった。
自衛隊の違憲を訴え続けた大看板の意味をもう一度見直してほしい。
posted by M at 00:49| レポート

2008年04月30日

明日(5/1)News23に出演します。

あす(5/1)、TBS News23の憲法特集に出演します。

昨年、暴露された自衛隊情報保全隊が自衛隊に批判的な市民団体、政党、労組、ジャーナリスト、宗教団体などの動向を調査された問題が明らかになったことを覚えていますか。
私のイラク写真展もその監視の対象になっていました。
まるで、戦前の憲兵が思想まで取り締まり、自由に意見が言えない息苦しい時代を想起させました。明らかに憲法違反です。自衛隊はこんな活動をやってはいけません。いまも、事件の全容は闇に葬られたまま。
その後、いろいろな反基地集会や私の講演会などもきっと、彼等が潜り込んでいるんだろうなと思うと気味悪い。
そんな話しを番組でしました。

posted by M at 23:49| レポート

2008年04月29日

大浦湾でアオサンゴ大群落発見!

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4月初旬、大浦湾にアオサンゴ群落を見に行った。
ジュゴン保護基金の東恩納琢磨さんらが調査したところ約五十メートル幅約三十メートルの範囲で密集していることがわかった。「白保(石垣島)に次ぐ規模の大群落だ」という。
新基地建設で大浦湾の埋め立て行われれば、サンゴに大きな影響を与える。基地建設の断念とサンゴの保全が求められている。
posted by M at 18:27| レポート

2008年04月28日

無惨・キャタビラに踏みつぶされたジュゴンのエサ

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4月26日午後キャンプシュワーブの砂浜から沖合に停泊した揚陸艦に向かった水陸両用戦闘車輌は、浅瀬に乗り上げ車体を大きく傾けた。あの下にはジュゴンのエサとなる藻場あるはずだ。
3日後、ジュゴン保護基金の東恩納琢磨さんの船に乗って現場に向かった。船の上からもはっきりと海草が削り取られ砂地がむき出しになっているのがわかる。早速潜ってみると何筋もキャタビラの後が見える。

水陸両用戦闘車輌が通過した後は海草が根こそぎはぎ取られてしまい砂地がむき出しになっていた。
この海で平和に生活している絶滅危惧種のジュゴンにとって海草は大切な食料だ。基地建設は彼らの生息区域を奪うだけでなく、軍事演習が彼らの食糧まで奪っている。この海域での訓練は直ぐ中止して欲しい。
posted by M at 23:28| レポート

2008年04月27日

戦場につながっている海 辺野古

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辺野古からボートで基地建設予定地を見た帰りにキャンプシュワーブの浜を見ると一列に水陸両用戦闘車両(AAVP7A)が15輌整列していました。しばらくすると沖に揚陸艦が。
浜からディーゼルエンジンの黒煙を上げて次々と海に入っていきました。おりから引き潮の時間とかさなり浅瀬の海草やサンゴを破壊し、リーフ上では珊瑚礁に乗り上げて外洋の揚陸艦に近づく姿はまるで象の群れの暴走のようでした。
珊瑚礁のサンゴが破壊されることなど、全く意に介さないといった行動でした。
これがイラクやアフガンの戦場と繋がっていることを実感しました。
posted by M at 12:33| レポート

2008年04月21日

森住 卓 講演会やります。

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空爆されたダンスホール(2003年4月 バスラ)



イラク・劣化ウラン弾は何をもたらしたか?

4月27日(日)午後5時から

会場 沖縄国際大学 5号館 5‐106教室

会場住所 沖縄県宜野湾市宜野湾2-6-1
交通機関 ●那覇バスターミナルより
(1) 22番、98番に乗車し「沖縄国際大学前」下車
(2) 27番、90番に乗車し「長田」下車
所要時間は約40分

●乗用車の場合
那覇・浦添方面から
(1) 国道330号を普天間方面に向かい、
宜野湾・長田交差点を左折(案内標識あり)
(2) 国道58号から大謝名交差点を右折、
交番のある三叉路を左折(案内表示あり)
中北部方面から
普天間三叉路から国道330号を浦添方面に向かい、宜野湾長田交差点を右折
駐車場は一定数あり
くわしくは沖縄国際大学HP参照
入場料 資料代:100円
主催 平和サークル・Peaceになり隊
連絡先 電話:098(945)1617(瀬底)
メール:peaceninaritai@yahoo.co.jp
ブログ:http://peaceninaritai.seesaa.net/

posted by M at 20:31| レポート

2008年02月05日

『消される歴史の現場から』〜JVJA沖縄現地報告〜

昨年秋以来取材を続けている沖縄戦で日本軍による「集団強制死」の報告を日本
ビジュアルジャーナリスト協会(JVJA)のメンバーとともに行います。
ぜひお越し下さい。

『消される歴史の現場から』 〜JVJA 沖縄現地報告〜http://www.jvja.net/

【日時】  2008年2月23日(土)
【時間】  開場15:30、講演16:00〜18:00

【場所】  明治大学リバティータワー 地下1011教室
http://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/suruga/access.html

【資料代】 1,000円

【共催】  現代史研究会/日本ビジュアル・ジャーナリスト
協会(JVJA)

【お問合せ】 JVJA事務局 090-6101-6113 office@jvja.net
       ※先着順(予約は必要ありません。定員275名



 なぜ、今、沖縄なのか?今も、なぜ、沖縄なのか?そんな疑
問を10年以上持ち続けてきた。なぜ、0.6%の国土面積の沖縄
に、在日米軍基地の75%もが日米両政府によって押し付けられ
てきたのか。10数万人の民間人を含む、沖縄戦の犠牲者24万人
の名前を「平和の礎」に刻んだ沖縄。繰り返される在沖米軍兵
士による暴力犯罪の数々に、1995年、8万5千人が県民集会で日
米政府に抗議した沖縄。日本初となる1996年の県民投票によっ
て、「基地はいらない」と県民ぐるみで声をあげた沖縄。それ
らの一切も無視するかのように、軍事基地は維持され、米兵に
よる犯罪が続き、そしてさらなく米軍基地の強化が目論まれて
いる沖縄。
 その沖縄を、さらに辱めるかのような文部科学省教科書検定
の「歴史の隠蔽」。それに対して昨年9月には、11万人余の老
若男女が県民大会で抗議の声をあげ、そして今も、怒りの声を
あげ続けている沖縄。私たちは、その声を聞く「義務」がある




(司会進行) 豊田直巳
http://www.ne.jp/asahi/n/toyoda/

(報告)森住卓/山本宗補/國森康弘



ヤンバルの森から「集団強制死」の現場へ
森住卓

 強制集団死の体験を語る、島人の涙と額に刻まれたシワは、
消えることのない深い傷を物語っている。愛する妻を、我が子
を。兄弟姉妹を自らの手にかけ、自分だけが生き残ってしまっ
た苦悩。真摯で愚直、故に苦しみ続けた63年間。
「天皇の軍隊」の命令がなければ起こらなかった。あのことが
歴史から消し去られようとした事を知った、体験者たちは重い
口を開き始め、狂気の時代を語り出した。今、再びあの時代に
戻してはならないと。
http://www.morizumi-pj.com/


沖縄戦からは国民を棄てる軍隊がよく見える
山本宗補

沖縄戦からは国民を棄てる軍隊がよく見える:八重山諸島の戦
争マラリアで家族16人を失った女性、伊江島の壕での集団自決
を運良く生き残った男性、投降しようとしたら日本軍の将校に
「国賊」と罵声を浴びせられ日本刀で斬りつけられた男性など
、沖縄戦を生き残った島民の戦争の記憶は一人一人の脳裏に深
く刻まれている。日本軍の存在が住民を死に追いやった沖縄戦
。敗戦間際、日本軍によって満州の荒野に切り棄てられた満蒙
開拓民27万人のたどった惨劇。軍隊は誰のために存在したのか
、共通項を考えてみたい。
http://homepage2.nifty.com/munesuke/



「日本兵が語る沖縄戦」〜歴史認識の空白を埋める〜
國森康弘

 これまで語られることがあまりなかった、「元日本兵による
沖縄戦の証言」を集めた。沖縄県民12万人(一説には15万人)
以上、沖縄県外出身の日本兵約6万6千人のほか朝鮮人や台湾人
、米兵ら多数が亡くなった沖縄戦。そこでは、集団自決の強要
をはじめ“スパイ容疑”での処刑や壕の追い出し等で、住民の
多くが日本軍により死に追いやられた。では現場にいた日本兵
はあのとき、どのような意識に基づき、どんな行動を取ってい
たのか―。また、60余年を経た今日、沖縄住民に対して何を思
うのか―、なぜ今当時を語るのか―。
元兵士達の証言は、その時代時代の政治力学によって右往左往
する”歴史認識”の現状に、重い一石を投じる。
http://www.kunimorifoto.net/


下のpdfファイルを開いて宣伝してください。チラシがプリントアウトできます。
JVJA-okinawa.pdf
posted by M at 17:59| レポート

2008年01月08日

森住卓のHP更新中です。マーシャル諸島レポートUPしています。

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新年からホームページの更新をしています。
http://www.morizumi-pj.com/

昨年太平洋の島々を回って居ました。そのレポートを暫時掲載をしていきます。まずはマーシャル諸島、メジット島のレポートを何回かに分けて掲載します。すでに2回分が掲載されています。
自然と共にゆったりと生きる人々から多くのことをまなびました。しかし、この島にも半世紀前の核実験影響が・・・・。

気まぐれで定期的に更新できませんが、辛抱強くおつきあいください。



posted by M at 21:46| レポート

2008年01月07日

気候変動=沈み行くフィジーの村(1)

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大潮の満潮時、ヤシの木の根本が波に現れやがて倒れてゆく。
(2007年12月9日トグレ村)
posted by M at 22:18| レポート

2008年01月03日

もう一枚の年賀状

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今年は2種類の年賀はがきを作りました。
その一枚はマーシャル諸島共和国メジット島の子どもたち。マーシャル諸島は温暖化による海面上昇によって、海岸線がどんどん浸食されている。また、半世紀前の核実験の影響が未だに続き、子どもたち第3世代にもその影響が出ている。核実験も温暖化もアメリカや先進工業国のもたらした災いだが、いつもその被害を被るのは何の罪もない人々だ。無邪気で底抜けに明るい子どもたちの未来のために地球環境を守っていきたい。
posted by M at 11:09| レポート

謹賀新年

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明けましておめでとうございます。
やっと、年賀状を書き終えました。

今年の年賀状をUPしました。
お届けできなかった皆さんにはブログ状でお許しください。

年賀状に使った写真は栃木県那須の山中で撮影したエンレイソウです。
大きく広げた3枚の葉に宿る生命力を感じたのです。
「延齢草」と書く。艶っぽさもあり、艶麗草と書いても良さそうなのに。薬草のイメージがあるが毒をもっている。



posted by M at 11:07| レポート

2007年12月27日

地球温暖化・フィジー地球温暖化・フィジー

s-2008_01_01_akahata_FIJI_1 001.jpgs-2008_01_01_akahata_FIJI_2.jpg12月初旬フィジーで取材した地球温暖化の記事が「しんぶん赤旗」の日曜版に掲載されました。
posted by M at 20:57| レポート

2007年12月13日

フィジーの被曝者 アポイさん

WM1Z9999.jpgイギリスが太平洋クリスマス島で行なたった核実験に動員された、フィジーの元兵士たちがいる。
ポール・アポイさん(71才)は、フィジーの首都スバの近くの街に住んでいる。
フィジーは1970年に独立するまでイギリスの植民地だった。フィジー人はイギリスのパスポートを持ち兵役が課せされた。アポイさんは1956年19歳の時に入隊。クリスマス島の核実験場に始めていったのは19歳の時だった。フィジーから同僚が一緒に行った。当時、イギリスは核実験を準備していた。
21才の時に再びクリスマス島に行った。沖に停泊している大型輸送船から生活物資等を受け取り島に運ぶ小さなボートのオペレーターだった。仕事は土日を除く月曜日から金曜日まで毎日だった。
イギリスはクリスマス島で1957年から翌年まで6回、マルデン島で3回の大気圏内核実験を行った。
そのうちポールさんは7回の核実験を目撃した。
なんの予告もなくいきなり大きな真っ赤な火球がもうもうと天に駆け上り、巨大なキノコ雲ができた。その後大きな衝撃波が襲い、爆発の反対方向に向いて、両手で顔を覆っていたが、強烈な閃光は顔を覆っていた指の骨がレントゲン写真のように透けて見えた。恐ろしかった。爆心地から約20キロの距離から眺めていた。ポールさんたちに防護服などは支給されずイギリス軍は何も教えてくれなかった。雨が降り出したので外に出てシャワーを浴び、雨水を飲んだ。その雨には大量の放射能が含まれていた。イギリス軍は毎日漁船が魚を獲ってくると、一匹ずつガイガーカウンターにかけて放射能をチェックし、異常があると棄てていた。ポールさんたちはその様子を見ていたが、その意味さえ知らされていなかった。危険を知らされていないフィジー人は毎日魚を捕って食べていた。クリスマス島から帰ってきた1年後、髪の毛をかき分けるとごっそり抜け、指の爪がはがれ、歯肉から出血した。その後、時々原因不明の皮膚病にかかる。
1962年に結婚したが子どもが出来なかったので離婚した。
2度目に結婚した妻は3回流産した。そして、娘はなかなか歩くことが出来ず3才になってようやく歩けるようになった。ある日の朝、ベッドから起き上がれなかった。病院に連れて行ったが原因がわからず、入院した。その夜、彼女は息を引き取ったのだ。医者の死亡診断書には「心不全」と書かれていた。さらに、長男は子供を産むことが出来ないと医者から宣告されている。
ポールさんの異常は急性放射線障害と思われるが、その後症状も収まり、寝込むほどのこともなかったので、気に掛けていなかった。しかし、妻の流産や娘の死が被曝のせいだときづいたのは、娘の死からだいぶたった、1991年だった。同国内のNGOが被曝者の本格調査を始めた時からだ。
フィジーからクリスマス島に行った兵士は全部で285人。そのうち流産や子どもに巨人症や小人症、起き上がれない子ども、等が生まれた。
ポールさんは元兵士の会を結成し英国政府に被害補償を求めて、集団訴訟を起こしている。「われわれは高齢になり、いつまで戦えるのかわからない。すでに、白血病などで230人以上がなくなっている。イギリスは我々の死をじっと待っているようだ」と言った。
インタビューが終わってアポイさんに自宅に連れて行って貰った。バスセンターからバスで20分ほどの住宅街。バスは75セントだった。アポイさんは老人割引券のようなチケットを持っていたので35セントだと言った。アポイさんの家は2軒長屋のような家で、2人の息子と生活していた。3畳程の広さの部屋が2室とキッチンが付いている。締め切った部屋はむせ返る暑さだった。クーラーもなく、夜は蚊帳をつって寝ているようだ。フィジー政府から支給される年金は月に80ドル。これでは1週間しか生活できない、生活を切り詰めないと、と嘆いていた。
「私の人生を狂わしたのはイギリスが核実験を行ったからだ。何も知らせず、フィジー人を核の恐怖にさらしたイギリスを許せない」ときっぱりと言った。
「私は死ぬまで、核保有国イギリスが太平洋の島国の人々に与えた暴挙を世界に訴え続け、世界のヒバクシャと連帯して、2度とあのような悲劇が起こらないよう核兵器廃絶を訴え続けたい」と話すアポイさんの心に固い決意込められている事が伝わってきた。英語が苦手な私にも理解できるように一語一語ゆっくり話すアポイさんの表情はとても穏やかだった。
広島・長崎の被爆者の聞き取り取材をしているときに感じた、優しさや穏やかさと同じものを感じた。


posted by M at 09:59| レポート

2007年12月03日

地球温暖化

本日からフィジーに行ってきます。

温暖化の影響を取材してきます。
温暖化の暴走は始まったのか?雪だるま式に悪循環が始まりかけている。
人類に残されている時間は「ちょうど、サッカーの試合で後半45分が終わったあとのロスタイムに似ている」と「地球温暖化/人類滅亡のシナリオは回避できるか」(扶桑社)で田中優紙は述べている。
posted by M at 13:42| レポート

米軍再編 怒りの列島A座間(神奈川県)

s-1WM1Z9466.jpg「戦争司令部入らない」とキャンプ座間への米陸軍第1軍団移転に市をあげて反対している座間市で12月2日移転反対集会が開かれた。首都圏から1万3千人が集まった。
posted by M at 13:34| レポート

米軍再編 怒りの列島@岩国

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「国の言うことを聞かないから補助金を出さない」こんな事許されていいの?
岩国基地への空中給油機移駐に反対している岩国市は国補の補助金が出るというので建設を始めた市庁舎の建設が、国から「米軍再編に協力しないから」とお金をもらえなくなってしまった。
市民や全国から怒りの声が上がった。12月1日岩国の錦帯橋の河原で1万千人の市民集会が開かれた。
posted by M at 13:28| レポート

2007年10月18日

沖縄地元2紙の県民大会報道

s-IMG_0027.jpg11万6千人集まったと言われる、9月29日の県民大会を報じた翌日(9月30日)の沖縄タイムス、琉球新報。1面と28面全段ぶち抜きの熱の入った紙面だった。
posted by M at 23:40| レポート

「集団自決(強制集団死)」

(10月8日にUPした文章に年数などの誤りがありましたので、訂正しました。精査、訂正作業中ご迷惑をおかけしました。)


9月27日から10月13日まで沖縄で「集団自決(強制集団死)」の取材をしました。
その時出会った人々のことを記しておきます。



「集団自決」の舞台となった渡嘉敷村と座間味村は沖縄本島南部の西方海上の慶良間諸島にあります。(集団自決はここだけではありません)
周辺の海は世界有数の透明度を誇っておりダイビングポイントもたくさんあります。この海域は毎年冬から春にかけて鯨がやって来る、ホエールウオッチングも出来る観光名所です。
那覇からの高速船は戦争体験のない若者たちで一杯でした。彼らの多くは62年前、太平洋戦争末期に起こった、この島々の悲劇を知る者は数少ないのではないでしょうか。

1945年太平洋戦争末期、押し寄せてきた米軍艦船で渡嘉敷村、座間味村の島々の海は埋め尽くされました。船伝いに本島まで渡って行けるようでした。
小さな島は米艦船に包囲され、連日激しい空襲と艦砲射撃が豪雨のように降り注ぎ、島の地形が変わってしまうほどでした。島にある船は破壊され、逃げるすべもなく島は完全に孤立しました。
「必ず友軍が巻き返しに来る」事を信じて疑うものはいませでした。
「一億玉砕」「生きて虜囚の辱めを受けず」の精神が浸透した魔の戦場と化したのです。「鬼畜米英」とすり込まれた住民は、「米軍に捕まれば男は八つ裂きにされ、女は強姦されて殺される」と信じ込まされ、捕まるより「天皇陛下のため、お国のためにいさぎよく死のう」とすり込まれていました。
米軍が上陸した3月26日(座間味)、27日(渡嘉敷)以後、集団自決(集団強制死)が始まったのです。

「集団自決(強制集団死)」を体験した証言者は62年間ずっと苦しみを背負って生きてきました。
自分たちの体験が歴史教科書の中で歪曲されてしまうことに、身を震わせて怒っていました。自分の体験が歪曲されて後世に伝えられてしまったなら、同じ過ちが繰り返されると。

身内を殺し、死のうと思っても死にきれず生き残ってしまった人々の苦悩は想像を絶するものがあります。生き残ったひとびとのインタビューで「体験していない者には本当のところを理解できないですよ」と言われた時に、確かにそうだと思いましたが、同時に「あなたはジャーナリストとしてどのように伝えるのですか?」と問われたのだと思っています。
世界の戦争被害の歴史の中で、これほど残酷で無惨な体験を私は聞いたことがありません。

1945年3月末、米軍が上陸した後、米軍に追い詰められ、日本軍から保護をされなかった住民は「愛する故に愛する我が子を、妻を殺さなければならなかった」のです。「天皇陛下バンザイ」を叫んで。
渡嘉敷では米軍上陸の1週間ほど前に兵器軍曹が役場職員や青年にひとり2個ずつ手榴弾を配りました。「一発は米軍に投げ、一発は自決用に」と。
「生きて虜囚の辱めを受けず」「天皇のために、お国のために死になさい」と教育された住民に残された選択はひとつ。「自決」しかありませんでした。しかも、軍から手渡された手榴弾は操作の不慣れや不良品が多く、不発のものもたくさんありました。
手榴弾を持たない住民は鎌や棒きれ、石、カミソリ、縄や紐で、そして幼子を燃えさかる炎の中に。最後に残された父親は死にきれず気が狂ってしまったのです。
16と18才の兄弟は大人達がどうやって殺すのか、その殺し方をじっと見ていました。二人はやがて母と妹、弟を石で殴り殺したのです。

座間味国民学校の校長先生は妻と2人の女教師や住民と壕に隠れていました。米軍が迫ってきたことを知った校長先生は静かに「皆さん、こちらに集まってください」と住民をひとかたまりに集まらせたのです。そして「天皇陛下バンザイ」と叫んだ直後、手榴弾が爆発しました。2人の女教師は瀕死の重傷を負いました。
校長先生と妻は死にきれませんでした。やがて校長先生は妻を抱き寄せ、鞄からとり出したカミソリで妻のクビを切り始めました。じっと目をつむったままでした。そのため、妻のどこに刃が当たっているのかもわからず、何度も何度もクビに切り込みを入れてゆきました。妻は「まだですよ、まだですよ」と言いながら、やがて大量の出血で意識を失って行きました。
押し黙っていた校長先生は自分のクビに刃を当て一気にカミソリを引きました。
「プシュー」と言う鈍い音ともに鮮血が噴き出し周りを血の海にしました。
狭い壕の中、校長先生の向かい合わせに座っていた9才の少年が全てを目撃していました。
飛び散った校長先生の血が少年のシャツを真っ赤に染めました。その時の少年は「血が生暖かかった」ことを今も鮮明に覚えています。

「鬼畜米英」の思想は米軍に遭遇したときに米軍を憎しみ殺すという思想でした。
しかし、武力を持たない、逃げまどう住民は戦場で圧倒的な火力をもつ米軍に遭遇すると、憎しみが恐怖に変わり、米軍に向ける刃を愛情をもつ家族に向けたのです。
「殺意無き殺人、愛するが故の殺人」天皇制がいかに残酷で、残虐であるかが最も劇的な形で現れた事件でした。

さて、文科省が高校歴史教科書の書き換えの理由にした裁判で座間味の元部隊長・梅澤裕元少佐は「軍命ではなかった」と名誉回復を求めています。
しかし、彼は米軍上陸後、次ぎつぎと突撃命令を出し、多くの将兵を死に追いやり住民をスパイとして虐殺し、自決へと追い込んだ責任者でした。
梅澤少佐は、朝鮮人慰安婦を伴い壕を転々と逃げ回り4月10日、各隊に独自行動を命令。部隊の事実上の解散宣言をしてしまいました。
本人は自決もせず生き延びました。米軍に捕まったとき朝鮮人慰安婦と一緒で、住民から石を投げられ、米軍に保護されながらトラックに乗せられ連行されました。
その梅澤元少佐が1987年に座間味を訪れました。目的は「軍命はなかった。住民は自発的に集団自決した」という証文をとるためでした。
元村収入役兼兵事主任の弟A氏に会い、「一筆書いて欲しい」と頼んだのです。
しかし、元助役の弟は拒み続けました。元助役の弟は戦時中、徴兵され福岡県の部隊に配属されており、座間味にはいなかったのです。
A氏が梅澤氏の要請を断ったあと、福岡の時の戦友だという2人の男が泡盛を持ってやってきました。
その時の様子は宮城晴美氏の著書「母の遺したもの」に書かれていますので引用します。「ところがその夜、M・Y氏(ブログではA氏 以下同じ)の元戦友という福岡県出身の二人の男性が、慰霊祭の写真を撮りに来たついでにと、泡盛を持参してM・Y氏を訪ねて来た。戦友とはいっても所属が異なるため、それほど親しい関係ではないし、またなぜ、この二人が座間味の慰霊祭を撮影するのか疑問に思いながらも、はるばる遠いところから来てくれたと、M・Y氏は招き入れた。何時間飲み続けたか、M・Y氏が泥酔しているところに梅澤氏が紙を一枚持ってやってきた。家人の話では朝7時頃になっていたという。「決して迷惑はかけないから」と、三たび押印を頼んだ。上機嫌でもあったM・Y氏は、実印を取り出し、今度は押印したのである。」とその経過を書いている。
この翌月1987年4月18日の神戸新聞に「座間味の集団自決に梅澤氏の命令はなかった」との記事が掲載されました。A氏が押印した文書は裁判の証拠として提出されているのです。
梅澤元少佐はA氏を二重三重に貶めたのです。

深い傷を心に秘めた人々から証言を聞き出すことは、かさぶたをはがして、血のにじみ出た所から傷口に入り込むような残酷さがあります。
しかし、この作業なしに歴史を後世に正しく残せません。
渡嘉敷島で証言してくれた97才になるおばあさんが自決現場近くに案内してくれました。しかし、身体が震えて現場までたどり着けませんでした。
インタビューが終わると1時間も泣き続けていたと、あとで長男から聞きました。

証言をしていただいた方々の心の奥にしまい込んだ深い傷を思うとき、一度や二度の取材でこの人々の痛みを理解したなどと絶対に言ってはならないと固く思ったのです。
これまで、これほど真剣に取材対象と向き合ったことはありませんでした。
(今までは真剣ではなかったと言うことではないのですが)
この取材はある意味、命がけ。中途半端は許されない、心してかからねばならいと思っています。
posted by M at 23:10| レポート

2007年10月17日

「集団自決」の精査、訂正作業中

先日ブログにUPした沖縄の「集団自決(集団強制死)」の記事に事実誤認があるとご指摘をいただき、ただいま、精査、訂正作業中です。
そのため、ブログを削除しております。
近日中に改めてブログにUPいたします。
みなさんにご不審とご迷惑をおかけしていることをおわびします。
posted by M at 16:24| レポート

2007年10月12日

立川ビラ弾圧事件

AKAHATAI07_10_12.jpg自衛隊と警察が2ヶ月前から共謀し弾圧を準備していたことが内部文書で明らかになりました。10月12日しんぶん赤旗が掲載しました。
posted by M at 12:51| レポート

2007年09月30日

ミャンマー(ビルマ)でのジャーナリスト殺害への抗議声明とミャンマー(ビルマ)情勢緊急集会のお知らせ

「抗議声明」
「10月3日(水) ミャンマー(ビルマ)情勢緊急集会のご案内」


 日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)は、軍事政権下にあるビルマ(ミャンマー)の旧首都ヤンゴンで、9月27日の一般市民らによる平和的な反政府デモの取材中、治安部隊の兵士により銃で至近距離から狙い撃ちされ、殺害された日本人ジャーナリストの長井健司氏の死に対し、ビルマ(ミャンマー)の軍事政権に強く抗議をするものである。

 長井氏が殺害される瞬間の映像から、治安部隊が取材中である長井氏を射殺した経緯が明らかであり、「長井氏が観光ビザで入国しデモを取材中に巻き込まれたために死亡した」という国営テレビによる報道は、自由な報道を全く許さずに政府の広報機関としての機能を担う国営メディアを使い、当局が殺害の責任と国際社会からの非難を回避しようとする意志が読みとれる。こうした当局の報道に対しても抗議するものであ
る。

 軍事政権及び当局は速やかに長井氏のご遺族に謝罪するべきである。また、平和的な反政府デモに対する武力弾圧という蛮行を速やかに止め、撮影機材の押収や、ジャーナリストに対する脅迫と暴行、身柄の拘束など、事実を取材し報道しようとする内外のジャーナリスト及び報道機関の権利を踏みにじる一切の行為を止めるべきである。

 また、8月以来ビルマ(ミャンマー)各地で行われてきた反政府抗議行動に対しての軍事政権による暴力的鎮圧と武力行使は、辺境地域の少数民族に銃口を向け、数十年来にわたり政府軍が無数の自国民を殺戮してきた軍事政権の一貫した方針を証明したにすぎない。

 この間、国連をはじめとする国際社会が軍事政権に対して毅然とした外交姿勢をとっているにも関わらず、長井氏殺害事件が起きる直前まで、事態を静観し発言を控えてきた日本政府の人権を軽視した、あいまいで軍事政権に対し寛容と思える外交姿勢に強い疑念を覚えるものであることも付記しておきたい。

日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)2007年9月29日


なお、JVJAは以下の要綱で、緊急集会を開催します。


「ミャンマー(ビルマ)情勢緊急集会 〜 これまで何が起きてきたのか」

■10月3日(水曜日)
開場 午後6時30分 開会 6時45分〜8時30分

■明治大学リバティータワー 1114教室(130名)
JR御茶ノ水駅下車 徒歩3分
http://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/suruga/access.html


■定員 130名限定 当日受付のみ・先着順 
※満員になり次第、受付・入場を終了します。
会場収容人員の都合上、あらかじめご了承ください。

■参加費 1000円

■連絡先 日本ビジュアル・ジャーナリスト協会事務局
     TEL 090-6101-6113 E-mail office@jvja.net



(報告者)

・山本宗補(フォトジャーナリスト)
・吉田敏浩(フリージャーナリスト、アジアプレス所属)
・根本敬(上智大学教授、ビルマ近・現代史専門)
・ポーンミントゥン(在日ビルマ人活動家)
・APF通信社スタッフの方
(長井健司さんのこれまでの取材活動・足跡についてお話していただきます)

※報告者・発言者は事情により変更になる場合がございます。あらかじめご了承ください


(報告者プロフィール)

山本 宗補 (やまもと むねすけ)

 1953年、長野県生まれ。アジアを主なフィールドとするフォトジャーナリスト。1985年からフィリピン取材、1988年よりビルマ(ミャンマー)の少数民族問題、民主化闘争の取材開始。1998年、アウンサンスーチー氏のインタビュー直後、秘密警察に身柄を拘束され、国外追放となる。日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)会員、「ビルマ市民フォーラム」運営委員。
 著書に「ビルマの子どもたち」(第三書館)、「ビルマの大いなる幻影 解放を求めるカレン族とスーチー民主化のゆくえ」(社会評論社)、「また、あした 日本列島老いの風景」(アートン)、「世界の戦場から フィリピン 最底辺を生きる」(岩波書店)など。共著に「フォトジャーナリスト13人の眼」(集英社新書 2005 年)などがある。現在、国内各地で「老いの風景」、「戦争の記憶」をテーマに取材を続ける。
http://homepage2.nifty.com/munesuke/



吉田 敏浩 (よしだ としひろ)

 1957年大分県出身。77年にビルマ・シャン州の解放区を訪ねて以来、ビルマ、タイ、アフガニスタン、インド、バングラデシュなど、アジアの諸民族の世界を訪ねる。1985年3月から88年10月まで、ビルマ北部のカチン州とシャン州へ3年7ヶ月に及ぶ長期取材。その記録をテレビ番組「回想のジャングル」(NHKスペシャル)にて発表。また同記録をまとめた「森の回廊」(NHK出版)で第27回大宅壮一ノンフィクション賞(96年)を受賞。
 その他の著書に、『宇宙樹の森』(現代書館)、『北ビルマ、いのちの根をたずねて』(めこん)、『生命の森の人びと』(理論社)、『夫婦が死と向きあうとき』(文芸文庫)、『ルポ戦争協力拒否』(岩波新書)、『反空爆の思想』(NHKブックス)など、共著に『世界の民・光と影』(明石書店)などがある。
http://asiapress.org/api/03memb/yoshida/yosd.htm


根本 敬 (ねもと けい)

 1957年、米国ワシントンD.C.で生まれ。上智大学教授、専門はビルマ近?現代史。62年から64年まで、ビルマの首都ラングーンで生活を送る。85-87年の2年間、かつての民族運動関係者や抗日農民ゲリラ参加者から精力的に聞き取り調査を行う。現在はビルマ近現代史におけるナショナリズムの形成と展開をテーマとし、ビルマという一国の枠を超えた地域的な比較研究や、幅広い角度からの歴史研究をおこなう。
 著書に『アウン・サン―封印された独立ビルマの夢 現代アジアの肖像』(岩波書店)、共著に『ビルマ軍事政権とアウンサンスーチー』(角川書店)、『ビルマ (暮らしがわかるアジア読本) 』(河出書房新社)などがある。

ポーンミントゥン

 1969年、ビルマの首都ヤンゴン生まれ。アウンサンスーチー氏のボディガードを務め、秘密警察に逮捕され91年から95年までインセイン刑務所に投獄された。釈放後に来日し、在日ビルマ人の活動家として民主化運動を継続している。投獄中の拷問経験を元に、AAPP(ビルマ政治囚支援協会)日本支部代表として活動し、ABFSU(ビルマ学生連盟)日本支部代表を務める。

APF通信社

 92年設立(代表・山路徹)長井健司さんの契約社。
http://www.apfnews.com/


posted by M at 23:06| レポート

2007年09月10日

高江の住人、農業1年生のケンボー

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9月7日、今朝はケンボーこと関口研一郎さん(23)はちょっと緊張していた。同時に独身の彼にはちょっと期待もあった。
大阪から女子大のゼミ学生が来るというのである。ヘリパット建設を巡る動きを説明しなければならないのだ。
ヘリパットの事、なぜ反対しているのか?高江の住民の気持ちをどうしたら伝えられるのか?自分はなぜここにいるのか?など説明の内容を頭にたたき込んでいた。
10時半。予定どおり十数人の女学生が小型観光バスから降りてきた。高江区のこと、ヘリパットのこと、ここで人殺しの訓練を受けた兵士が何の罪もない子どもや年寄りを殺さ無ければならないこと、黙っていたらその手伝いをしてしまうと一生懸命話をした。途中何度もつっかえたが、「却って心がこもっていて良かった」と周りから言われた。
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関口さんは高江の住人なってまだ半年。農業研修1年生だ。都内の大学を卒業後、この地で農業を営むMさんの元で研修中だ。師匠のMさんからは「ケンボー」と呼ばれその呼び方には師弟の愛情がにじみ出ていて聞いていると心が温かくなる響きを持っている。
「農業は厳しいぞ」とTさんはいつもケンボーに言っている。「Tさんの期待に応えて一生懸命ついて行くだけです。早く一人前になれるように全てが勉強なんです」と関口さんはめがねの奥のまん丸い目をきらきらさせた。










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高江のヘリパットに住民が反対して座り込みが始まってすでに2ヶ月が過ぎた。
はじめはMさんたち高江の住人がやっていることだから手伝うのは当然だと思っていたが、テントで支援の人たちと話しているうちに「自分はなぜここで反対しているんだろう」と考えるようになった。そして、新しい基地が作られここで人殺しの訓練が行われている。
「自分は人殺しに協力したくない」これが今、関口さんがテントで座り込みをする偽らざる気持ちなのだ。


posted by M at 19:39| レポート

送電線の標識

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北部訓練場の上空を飛ぶヘリのために送電線に着けられたオレンジ色の警告用標識。米軍ヘリは低空飛行です伝染に接触して何度も墜落事故を起こしている。
posted by M at 19:29| レポート

2007年09月09日

高村防衛大臣 辺野古を視察

ZJ9D4569 (1).jpg 9月8日、今日は高村防衛大臣が早朝、辺野古を視察した。わずか15分程度で辺野古のキャンプシュワーブから出てきてた。キャンプシュワーブゲート前にはたくさんの新基地建設に反対する地元のオジー、オバー達とともに市民や県民が駆けつけ抗議した。短時間で何を見たのだろうか?そのあと市長と懇談したが、地元マスコミは辺野古での抗議行動については一切報じなかった。

ZJ9D5941.jpg辺野古から東村高江に着いたのは9時半を過ぎていた。今日は土曜日で那覇など南部からもたくさんの人が来た。今日は那覇防衛局の動きは何もなかった。
防衛大臣が沖縄滞在中だからだろうか。
パイン農家の田中さんは東京から東村高江に移り住んで3年目。
「ようやくパイン作りがわかるようになってきた。まだまだですよ」と謙遜した。
座り込みのテントに畑で熟したいわゆる「完熟」を持ってきてくれた。早速ご馳走になった。甘く香りよし、かぶりつくと果汁がこぼれ落ちる。沖縄の太陽をたっぷり浴びて丹誠込めて育てられたパインはうまい。田中さんありがとう。

hoseiZJ9D5935.jpg 訓練場内に生息している親子のマングースが捕獲された。ハブ対策に導入されたマングースは天敵がいない。ハブの他に簡単に捕れる天然記念物で絶滅危惧種のヤンバルクイナやその他の稀少動物や昆虫を食べてしまう。そのため捕獲して個体数を減らす作戦が行われている。
米軍北部訓練場は人を殺す訓練とともに、稀少野生生物を守るための人間とマングースの熾烈な闘いも行われている。しかし、ハブ対策とはいえ、増えすぎたから減らすという。何の罪もないマングースには良い迷惑だ。ゲージの外の人間をじっと見つめるつぶらな瞳は人間の身勝手さを静かに告発しているようだった。


posted by M at 00:44| レポート

2007年09月05日

オスプレイの上陸演習が行われる宇嘉川河口

ZJ9D4402.jpg 宇嘉川の河口に行った。ここは高江の北端っこだ。この地域の東海岸は海上からいきなり100メートル以上の断崖絶壁がそそり立っている。パイン畑の中をつっきり車の入れる一番奥に、宇嘉川河口に下る山道がある。イノシシよけの金網フェンスを開けて急斜面の山道をたどるとおよそ20分で海岸に降りられた。宇嘉川河口は小さな湾になっていた。海を背にして両側の山は100メートルほど切り立って上部はなだらかになっている。米軍北部訓練場で海から陸に進入できる場所はここしかない。
【海岸に降りる急峻な山道に、防衛施設庁の標識がたっていた。ここが基地の境界であることを示している。】

ZJ9D4459.jpg 「沖縄はもうだまされない」(高文研)の著者の一人、真喜志好一さんは同著書の中でオスプレー配備でここから上陸作戦が行われるだろうとし、米海兵隊のサイトから宇嘉川そっくりの地形をしたオスプレーの上陸の図が載っているのを発見した。この図と今日撮影した宇嘉川河口の写真と比べて欲しい。そっくりである。
【画面右下が河口。小さな湾になっている。】

ZJ9D4442.jpg ここから上陸した兵士は、川の左岸の斜面を登るといま計画されているヘリパットG地区にたどり着く。「朝鮮半島を想定した訓練が考えれる」と真喜志さんは言う。そして計画では北部訓練場に隣接して安波訓練場の返還と引き替えに海上につながる新たな訓練場の取得があげられている。まさに宇嘉川につづく周辺の海域のことである。
【宇嘉川河口より内陸部を見る。】





posted by M at 22:19| レポート

2007年09月04日

高江の座り込み

hoseiZJ9D4318.jpg9月3日午前7時半過ぎ。
ヘリパット建設反対で座り込みをしている東村高江に行った。
まよなかしんやさんも駆けつけ、朝からコンサートになてしまった。沖縄防衛局(防衛庁から防衛省になって、今まで那覇防衛施設局が格上げされた)から雇われたガードマンもかきむしるギターとがなり立てるしんやさんの声に聞き入っていた。

hoseiZJ9D4374.jpg 夜はテントの近くで泊まり込んだ。数人の人が泊まり込んでいた。
夜空に満天の星。天の川が見えた。こんなたくさんの星を東京では見られない。道路に寝そべってしばらく星を見ていると流れ星も見えた。
星を眺めていると天空を横切るゆっくり点滅する青白い光り。見ると起き上がってみるとあちこちの藪が光っていた。ホタルである。9月に入ってからホタルが見られるなんて凄い。このことを座り込んでいる高江の住民に話したら「ふーん」だって。毎日見ているからいちいち感激していられないのだろう。



posted by M at 23:05| レポート

2007年09月01日

大浦湾のクマノミ城を守れ

hoseiIMG_1246.jpg(写真をクリックすると動画をご覧頂けます。)辺野古基地建設予定地の大浦湾に潜った。辺野古弾薬庫寄りの水深数メートルの海底に直径3メートルほどの珊瑚礁で出来た丸い塊がある。その塊の周りに小さな熱帯魚がたくさん泳いでいる。イソギンチャクの近くには鮮やかなオレンジ色と黒と白の混じったクマノミが泳いでいる。映画「ニモ」にもなったあのクマノミである。イソギンチャクとクマノミは共生関係にあることはよく知られている。近づくと、ゆらゆら揺れるイソギンチャクの中から鮮やかなオレンジ色の身体が見え隠れする。
日本には6種類のクマノミが生息しているが大浦湾にはその全種類が生息している。非常に珍しい場所だ。
もし、辺野古の基地建設が行われれば、このクマノミ城も埋め立てられてしまう。そんなこととは知らずに、クマノミたちはゆらゆら波に揺られてイソギンチャクの中に潜っていった。
posted by M at 19:21| レポート

2007年08月30日

ヘリの爆音

WM1Z5730.jpg昨夜(8月29日)10時頃、瀬嵩沖で激しいヘリの爆音がするので見に行った。米軍ヘリが辺野古沖のリーフの外側でサーチライトを照らして長時間低空でホバーリングを続けていた。ジュゴンが怯えて姿を消してしまう。

posted by M at 22:06| レポート

辺野古警備の強化予算

ZJ9D4176.jpg今日はジュゴンの里の東恩納琢磨さんと平和丸に乗って辺野古の海に出た。施設局に雇われた業者が数隻の船を出し、機材の点検とメンテナンスを行っていた。

昨日(8月29日)の沖縄タイムス夕刊には「海保、中城保安部を設置」と言う記事が1面に掲載された。
それによると、来年度予算概算要求「在日米軍再編に伴う海上警備体制の強化」として保安署から部に格上げし、人員63人の増員や、30メートル型巡視艇(PC)3隻にの導入などを求める。辺野古の警備を一層強硬に進めるつもりだ。
基地建設に反対している住民や市民に「適切な警備の実施」するために08年度の関連経費に約43億円を見込んでいる。
国民の税金を使って米軍基地建設反対運動を弾圧しようとするものだ。基地推進派と言われている人たちの中でも疑問が広がっている。
地元名護市の島袋吉和市長の後援会長を務める荻堂盛秀市商工会長は「小さなおきなわはいつも国の犠牲になってきた。近隣国との関係も考え、こういうときだからこそ天下御免という態度でなく、地元ときちんと話し合って欲しい」と沖縄タイムスに談話を寄せた。
基地建設に反対している住民や市民は一斉に辺野古シフトだ「海保は他にやるべき事がたくさんあるだろう」と怒っている。IMG_1114.jpg


posted by M at 22:00| レポート

2007年08月29日

辺野古と高江

BlogWM1Z5670.jpg あさ、8時前に辺野古着。施設庁の動きは昨日と同じようなので、ヘリパット反対で座り込んでいる東村高江に行った。




BlogWM1Z5677.jpg 辺野古から沖縄本当北部の東海岸に沿って北上。ヤンバルの森の中を走るのは気持ちいい。1時間半で高江に着いた。




BlogWM1Z5673.jpg 米軍の北部訓練場にヘリパットを建設する動きは今月23日に那覇防衛施設局が作業員と建設資材、作業車両を搬入使用としたが一部搬入されたがその後は地元住民、市民が搬入を阻止している。



BlogIMG_1089.jpg 昼には支援者から昼食の差し入れがあった。



posted by M at 21:02| レポート

2007年08月28日

辺野古

trimIMG_1059.jpghoseiIMG_1065.jpg朝7時、今日も晴れ。辺野古の命を守る会にはすでに反対住民が集まっていつものように出航準備をしていた。
今日はカヌー5隻、ボートと高速ボムボートが2隻だ。
午後8時過ぎ、施設局の作業船が汀間漁港から出港。アブオール島の沖で作業を開始。台風で一旦引き上げた機材の再設置のようだ。
私の潜ったところではパッシブソナーの設置を行っていた。
晴れの日には海がエメラルドグリーンに輝き、何と美しいことだろう。作業船と対峙していると、この海を人殺しの基地にさせてはならなと心から思う。上空には午前中からヘリがホバーリングして騒音をまき散らし、ジュゴンに不要な緊張を強いている。実は、今朝7時ころ、平和市民連絡会の平良夏目さんがボートで辺野古沖に近づくと亀と仲良く泳いでいるジュゴンを目撃した。
そんなこともあり、ジュゴンがヘリの音で驚いて生息出来なくなってしまう事を心配している。ジュゴン保護運動を行っている東恩納琢磨さんは「施設庁がヘリを飛ばしているのなら、ジュゴンの追い出し作戦だ」と怒っていた。
午後からは積乱雲が発生し、雷注意報が発令され、作業船は全く作業せず、沖に停泊して午後4時前に引き上げていった。今日一日で陽に晒していた肌は真っ赤に焼けてしまった。



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2007年08月27日

辺野古…今日は旧盆最終日

WM1Z5656.jpg(旧盆のために、施設局も作業なし。ひっそりとしている辺野古の海)

8月27日沖縄は旧盆最終日・送り日だった。
辺野古の新基地建設阻止の座り込みテントもひっそりと安次富さんと数人の人が座り込んでいるだけだった。
お盆の時に海人が海に出ることは御法度。ご先祖の霊を
迎えているときにはみなゆっくりと仕事はせずに家族や親戚一同が集まって、ご先祖の霊を迎えてともにご馳走を食べて先祖を偲ぶのだ。
さすがの施設局も今日は作業はなかった。
GCT[ZJ9D4091.jpg
「ジュゴンの里」がある大浦湾に面した瀬嵩では陽が落ちるとエイサーの道ジュネーが行われ、太鼓と三線が集落中による遅くまで響いた。
若者達の打ち鳴らす太鼓の鼓動は基地建設を押しとどめる地響きのように聞こえた。
明日から再び施設局と反対の市民との激しい攻防が始まるだろう。

これから2週間にわたって沖縄からのレポートをお送りする。



posted by M at 23:09| レポート

2007年08月10日

厚労省前座り込み 追加

ZJ9D4005.jpg東京の片山さんが座り込みに駆けつけた。「被爆者は核兵器が亡くなってもしに切れん」と言った。
posted by M at 19:56| レポート