2007年08月10日

2007年08月9日被爆者が猛暑の中で座り込み

WM1Z5630.jpg長崎に原爆が投下されて62回目の8月9日、霞ヶ関にの厚労省前に座り込んだ被爆者たち。
7月30日に熊本地裁による原爆症認定集団訴訟の判決で、熊本県内の被爆者21人(うち6名死亡)の原告のうち、19名を原爆症と認定し、国の却下処分の取り消しを命じる判決が言い渡された。
その原告の一人井上 保さんは「国は控訴するな」と訴えて厚生労働省前に座り込んでいた。
 井上さんは「長崎の三菱重工に熊本商工学校から学徒動員され、船の上で被爆した。両足を熱戦で焼かれたその痕は今も残っている。その翌日、市内に入りその惨状を目撃した。
現在、甲状腺機能低下症、前立腺ガンで治療中だ。62年過ぎたいまも、病気の事が気になるり、その不安にさいなまれ続けている。「原爆が原因でこんな病気になったのだ」と思っている。
国の控訴期限まであと3日。まだ厚労省は控訴断念と言っていない。「これ以上被爆者を苦しめないで。控訴を断念して欲しい」と言い残して3日間の抗議を終え、熊本に戻られた。


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2007年06月28日

被爆者厚労省まえ座り込み

s-s-ZJ9D8691.jpg3月28日霞ヶ関厚労省前。
日中からの雨で濡れた歩道には桜の花が落ち、足早に家路に急ぐサラリーマンが無関心を装って、桜の花びらを踏んで行く。
「国は被爆者として認めて欲しい」と訴えて被爆者が座り込みを続けていた。冷え込みは高齢の被爆者にとってきつい。


s-s-ZJ9D8698.jpgそこに、原爆症認定集団訴訟で東京地裁に訴えている梅園義胤(67)さんの姿があった。座り込みテントに集まった若者を前に自分の被爆体験を静かに語っていた。



s-WM1Z2891.jpg6月24日梅園さんのお宅を訪ねた。
梅園さんは広島で5歳の時に被爆した。小さかったのであまり記憶がない。
左肝臓の摘出手術をした。
だるくて会社勤めを50歳でやめた。
55歳の時ガンが肺に転移していることがわかった。
原爆症の認定申請を2度却下された。
毎週2回、インターフェロンの注射を自分でうつ
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2007年06月27日

被爆者の片山さん2

s-WM1Z2853.jpg
6月22日に広島で被爆した片山さんのお宅を再訪した。
もっと突っ込んで話を聞きたかったからだ。

以下、その時の話をまとめたものを掲載します。
片山昇さん(75)は広島で13才の時に被爆した。
国民学校6年生だった。2階の教室で本を読んでいる時にピカッ、カチッいう鋭い音がした。直後に大きなマグネシュームを焚いた(昔は写真を撮るときフラッシュの代わりにマグネシュームの粉を燃やした)ときのように真っ白になり、バリッという轟音とともに落ちていった。意識が戻るとあたりは真っ暗でしーんとして物音一つ聞こえなかった。生きているのか死んでいるのかわからなかった。ホコリの匂いがして匂いを感じると言うことは自分が生きているんだと思えた。運良くペシャンコになった校舎の隙間にいて助かったのだ。下の方から「助けてー」というかすかな声がしたが、どこにいるのか暗くて探しようがなかった。あの声は一階にいた子どもだったと思う。しばらくしてかすかな光りが差し込んできた。その方向によじ登ってゆくと外に出られた。這い出したところは校舎の屋根の上だった。見上げると真っ白なキノコ雲の傘がグリッグリッとものすごい勢いで上昇していった。何が起こったのか全くわからず校庭を横切って逃げた。
 
 私が助かったのは偶然が重なった。一つは父が経営していた写真館を閉めて爆心地となった中島町から下中町に引っ越した。さらに原爆投下の4ヶ月前に引っ越し先の下中町が強制建物疎開に引っかかり、段原新町に転居した。しかし、転校せずにそのまま中島小学校に通っていた。ところが6年生の秋、結核性の脳膜炎にかかり耳が聞こえなくなった。進学をあきらめ、一年留年することになった。その後右耳は回復したが左耳が難聴になった。
45年3月同級生はみな、進学したが、病気療養で長期欠席した片山さんはもう一年留年することに。近くの段原小学校に6年生として編入した。もし、父が写真館を閉めなかったら、病気になって留年しなかったら、その後の中島町の同級生とは大きく人生を分けることになった。それも全て、一発の原爆のために。

 被爆直後から父は下痢や下血、脱毛、歯肉からの出血など急性放射線障害で悩まされた。その頃、元気な人がばたばた死に出した。そんな人たちを見てもしかしたら自分もと、恐ろしくなりました。それから父はようやく危機を脱したと思った、3年目の1948年2月白血病で亡った。同じ日、6才年上の兄の悲しい知らせが届いた。フィリピンでB級戦犯として処刑されたといものだった。兄が帰ったら一緒に両親を助け残された母親は片山さんがいつから、被爆体験を語るようになったのか?
 ちょうど被爆40年周年の1985年の夏だった。同い年のグラフィックデザイナーの片岡脩さんが「平和アピールポスター展」を福屋デパートで開催していた。片岡さんは被爆前に住んでいた中島町(現在、平和公園)でいつも一緒に遊んでいた幼友達だった。
原爆が投下されたとき同期生たちは建物疎開の作業に動員されたていた。同級生43人のうち生き残ったのは片山さんも含めて9人しかいなかった。死んだ親友の谷本公くんが最期に「仇を取ってくれと」言って息を引き取ったことも知った。以来、谷本くんや「殺された8割の級友」の仇を取るとは「核兵器をなくすことだ」と気づき、核兵器をなくす運動と被爆者救援の運動に没頭するようになった。

 被爆の体験を語るようになった谷本さんは子どもたちにも体験談を話す機会が増えた。話の最後に「核兵器を作るのも人間、その核兵器を使うのも人間です。だから、それをやめさせるのも人間である私たちです」と訴えている。
73才になったいま、自分があの世に行ったときに原爆で殺された親友の谷本くんが「核兵器はなくならんのー」と言われたらなんといえばよいのか・・・・。

世界には未だに3万発以上の核兵器が人類の生存を脅かし続けている。
そして今なお、国に対して「被爆者として認めて欲しい」と裁判を起こしている。

写真:現在平和公園になっている中島町の被爆前の復元地図を広げて当時の話を聞いた。
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2007年06月20日

情報収集防衛省に抗議

ConeWM1Z2788.jpg6月20日午後、自衛隊情報保全隊の行った監視報告書に名前が載っていた当事者の私とジャーナリストの志葉 玲さん、増山 麗奈さん、Peace ONの相澤 恭行さん、川田 龍平さんが抗議に行った。
申し入れの内容は1、監視・調査の即時中止 2,監視活動の目的や経緯、対象範囲、監視期間などの情報公開、関係者にたいする処罰を要求した。
防衛政策局調査課情報保全企画室の担当者はいまも情報収集を続けているかどうかは言えないとしながら「今後も続ける」「自衛隊の安全を守るために必要」と居直った。
Conecti_WM1Z2780.jpg
ところで今回の抗議行動に参加した、増山さんはイラク戦争前後のピースマーチにピンク色のビキニ姿であらわれる桃色ゲリラの主宰者で芸術家だ。この日彼女は迷彩柄のビキニを着て防衛省現れた。
省内に入るときさすがの係官も上着を着てくださいとと。。。。取材に駆けつけた記者さんが貸してくれた背広を羽織っての入城となった。
「非人間的な権力や男権的武力にたいする増山の本能的闘争」だと言う。とても自由な人でした。




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2007年06月18日

大雨、洪水、雷警報発令中

WM1Z2611.JPGWM1Z2646s.jpg辺野古の命を守る会は、きょうも骨休め。昨日から断続的に激しい雨。
朝から雷がすごい。雷の予報が出たときは那覇防衛施設局は作業をやらない。
事務所の裏の森に激しい雨が降る。もうすぐ梅雨明けだ。

Correction_WM1Z2695.jpg雨の日でも、座り込みテントには沢山の人がやってくる。
今日はハワイから三線を担いでミュージシャンがやってきた。
同じアメリカに踏みにじられたハワイの民族と太平洋を隔てた沖縄は同じと、たくさんの歌を歌ってくれた。
カヨーのオジーも感激のあまり目頭を熱くしていた。基地建設に反対して座り込み10年の歳月を振り返っているようだった。
三線が奏でる音楽が闘いに疲れた心を癒し、慰め、勇気を振り起こしてくれる。

Correction_WM1Z2753.jpgずっと辺野古で取材を続けたいのだけれど、東京に戻ってやらなければならないことがある。
いつも後髪を引かれる思いで帰ってくる。
那覇空港で東京行きの便を待っていたら、東の空に虹が出ていた。
「また、沖縄に来いよ」と言っているようだった。


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2007年06月17日

高江区ヘリパト反対集会

ZJ9D2423.jpgZJ9D2394.jpg6月17日午後「やんばるへのヘリパット建設をやめよう集会」が開かれた。
大雨のなか地元東村や沖縄全県から400人が集まった。


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森住 卓
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高江区ヘリパット反対集会

ZJ9D2386.jpg「私は教師として子ども達に戦争のための基地建設を許してはならないと思いこの演壇に立っている」と挨拶した東村立中学校社会か教諭
の北島幸三先生。あいさつが終わると感激した集会参加者から共感と連帯の大きな拍手が湧き起こった。

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森住 卓
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高江区ヘリパット反対集会

ZJ9D2378.jpgWWFジャパン(世界自然保護基金ジャパン)の花輪伸一は「ヤンバルの森には2000種以上の稀少生物が棲んでいる。ここに米軍基地を作る為に環境アセスを行え
ば基地建設を作るという結論は出せないはずだ」とヘリパット建設を批判した。


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森住 卓
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高江区ヘリパット反対集会

ZJ9D2364.jpg高江区にヘリパット工事計画が持ち上がった昨年2月以来、高江区は反対決議をあげている。
しかし、今年4月の村長選挙で新しく村長になった伊集村長はヘリパット反対の公約棄て、防衛施設庁の圧力に屈して、6月村議会で正式に
ヘリパット受け入れを表明した。しかし、高江区の仲嶺武夫区長は集会で区民決議を貫くことを高らかに宣言した。

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森住 卓
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東村高江区のヘリパット反対集会

WM1Z2603.jpg集会が終わって、集会を呼びかけた高江区の有志のみなさんが反省会を開いていた。
「反対を続ける勇気が湧いてきた」「集会を開催してほんとうに良かった」と感想を出し合っていた。
今後のたたかいをどうするか遅くまで話し合われた。

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森住 卓
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ジュゴン撮影用の水中カメラ

camera4.jpg辺野古の海に設置されたジュゴン調査用の水中カメラ。
リーフの水路(クチ)に置かれているため、敏感なジュゴンは警戒して近づかないのではないかと言われている。
2,3日降り続いた大雨のために山から流れ出した赤土や藻がカメラに付着して見えなくなっている。これでジュゴンが来ても撮影できない。
防衛施設庁のみなさん日常のメンテナンスをお忘れ無く。


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森住 卓
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2007年06月16日

天然もずく

mozuku1.jpg辺野古の海にはたくさんの天然もずくが生えている。今夜のおかずに少しいただいた。
香り、歯ごたえ申し分ない。
船長のヒサボーさんが「この海を潰したら、全部が無くなってしまう・・・・」と教えてくれた。
「少しだけで良いさ。自分の分だけで。後は残して置きなさい」と近くの漁師がいった。みんなそうして辺野古の海に生かして
もらってきた。
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2人の船長

Manchan1.jpghisabo1.jpgヒサボーさんと女性船長マンちゃん。どちらも赤いボート。
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海兵隊のトラック

ZJ9D2243.jpg海兵隊のトラックが国道330号線を走っていた。威圧感があっていやな気分だ。

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森住 卓
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2007年06月15日

大潮 亀の産卵

ZJ9D2227.jpg大潮の時に亀の産卵が見られると聞いて、安部の浜に行った。早起きして来たがまだ早かった。地元の人に聞くと来月でしょう、言われた。
静かな浜でアカショウビンの鳴き声が山から聞こえてきた。

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森住 卓
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大潮 安部の浜

ZJ9D2264.jpg大潮で浜は海やもずくを捕る人で賑わっていた。
ジュゴンの食べる海草も生えていた。
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2007年06月14日

金城 実 「戦争と平和」

ZJ9D2178.jpgZJ9D2182.jpg
展示会場は元飛行場だった場所だ。

日本軍による住民自決の強要の場面

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森住 卓
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那覇防衛施設局に申し入れ

WM1Z2522.jpgヘリパット建設に反対している、東村高江区の住民となはブロッコリーのメンバー
は「ヘリパット建設による環境アセスをやり直せ」と那覇防衛施設局にたいして
申し入れをした(2007年6月12日)
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森住 卓
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金城 稔さんの大壁画展

ZJ9D2208.jpg沖縄・読谷村の役場横に100メートルに渡る大壁画が展示されている。人間国宝の金城実氏の「沖縄を彫る戦争と平和」(5月11日から6月24日)だ。
日本軍による住民虐殺と集団自決の強要、戦後の米軍占領下における住民の抵抗が激しいタッチで描かれている。
「ウチナーよこの歴史を忘れるな」という金城氏の心の底からの叫びが聞こえる。
同時に「高校歴史教科書から沖縄戦で住民自決に対する日本軍の関与を削除し、辺野古の新基地建設を弾圧するために派遣された軍艦派遣」など戦争の道に突き進む日本政府への激しい抵抗の意思を表しているようだ。

展示会場は読谷飛行場跡地。ここはかつて元山之内読谷村長時代、米軍基地建設に反対し読谷飛行場が返還される前に役場を建設した。全国でもただ一つの米軍基地内にある役場だった。村役場は米軍への抵抗のシンボルだった。その横の道路脇を会場にした。この展示に最もふさわしい場所だと思った。


「人は時に死者に向けて「安らかに眠ってください」と祈るが、沖縄戦で不条理の死をとげた者には「死者よ怒れよ」と妊婦が大地をたたく」と説明書きがあった。
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森住 卓
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辺野古の嘉陽オジイ

WM1Z2507.jpg辺野古は今日も作業が無く久ぢぶりに骨休め。
監視テントの座り込みに参加した人たちに「辺野古の海は神に祝福された海。命を守る海」だと説明する命を守る会の嘉陽のオジイ(2007年6月12日)
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2007年06月12日

アブオール島探検記

IMG_0487.jpgIMG_0491.jpg今日は辺野古の海は防衛施設庁の作業はありませんでした。
ヤンバルの東海岸でエコツーリズムを実践している「ジュゴンの里」の東恩納琢磨さんと息子と3人でアブオール島にカヌーを漕いで行ってきた。

辺野古の海からさらに東、安部部落の沖約800メートルにあるアブオール島は無人島でアダンやソテツの木で覆われている。アブオールとは安部の青い島という意味らしい。
ここから辺野古のキャンプシュワーブや大浦湾が一望できる。数年前、高校を中退の一人の若者が東京からやってきた。若者はこの場所で幸運にもジュゴンを目撃した。ちょうど、普天間基地の辺野古沖移転問題の初期の頃だった。若者はジュゴンに導かれるように辺野古へ海を守る闘いに没頭していった。若者をこの場所へ案内したのが東恩納さんだった。

今回は修学旅行生をカヌーでこの島に渡ってもらい、ジュゴンウオッチングしようという計画の下見を兼ねていた。

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2007年06月10日

辺野古

IMG_0416.jpg6月10日夕方、辺野古につきました。
昨日から防衛施設庁は基地建設の事前調査機器の設置作業を再開しました。
以前の作業は土日は休みだったものを今回は関係なくなりふり構わず強行しています。海上保安庁の船艇は巡視船3隻、高速ボートなどの小型船艇は20隻、作業船20隻と反対派を圧倒しています。反対派のカヌーは作業船にしがみつき必死に阻止行動を行っていました。
嘉陽のオジイと奥さんは辺野古の浜辺から「静かな海を人殺しの基地にしてはなるものか」とじっと沖を見つめていた。
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森住 卓
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2007年06月03日

東京の被爆者ー片山さん

katayamaWM1Z2358.jpg片山昇さん(75)は広島で被爆した。
国民学校6年生だった。2階の教室で本を読んでいる時にピカッと光ったあと真っ白になり、バリッという轟音とともに落ちていった。意識が戻るとあたりは真っ暗でしーんとして物音一つ聞こえなかった。ホコリの匂いがした。においを感じることで自分が生きているんだと思えた。ペシャンコになった校舎の隙間にいて助かった。下の方から「助けてー」というかすかな声がしたが、どこにいるのか暗くて探しようがなかった。あの声は一階にいた子どもだったと思う。しばらくしてかすかな光りが差し込んできた。その方向によじ登ってゆくと外に出られた。這い出したところは校舎の屋根の上だった。見上げると真っ白なキノコ雲の傘が黙々と上昇していった。何が起こったのか全くわからず校庭を横切って逃げた。(写真・団地住まいの片山さんはガクアジサイを大切に育てていた)



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